江戸時代において、春画や黄表紙などは取り締まりの対象となった。また、銭湯における混浴なども禁止されたと言われている。これらは「男女7歳にして席を同じくせず」という儒教倫理に基づいていると考えられるが、しかし実際の効果はそれほどかんばしいものではなかった。『江戸の性風俗』によれば、地方から江戸に出てきた武士が春画などを土産に持って帰ることもあったらしいから、その禁令の程度が知れるというものである。要するに、上が理想とする倫理と民衆の倫理には大きな開きがあったと言えるだろう。
しかしそれは、明治の中期頃から大きく変化したらしい。そして婚前交渉や離婚の忌避が生じた。江戸時代には処女という存在への拘りはほとんど存在しなかったし、離婚もしばしば行われていたことが指摘されている(『性的唯幻論序説』、『三くだり半と縁切寺』、『人口から読む日本の歴史』)。よく性モラルの低下と言われる際に基準とされるのは、この頃から戦後にかけてのスタンダードである。儒教倫理が民間までしっかりと浸透したことが原因だと私は思っていた。というのも、いわゆる「イエ制度」や名字という武士に特徴的な要素が民衆レベルまで広まったからである(あるいは「適用された」という言い方が適切かもしれない)。しかし『性的唯幻論序説』によれば、そこでの性モラルは外来の西欧的な観念を理想とし、それに基づいて生み出された「恋愛」という言葉が広まって一般的な観念として普及した、という形で定着してきたそうである。これが正しいかどうかまだわからないが、確かに西欧を基準にした視点で様々な慣習、道徳を改変していったことは事実であるから、それが男女関係の理念にまで及んでいることは十分ありえる(もちろん、そこに儒教的な観念も絡んでいると思われるが)。そしてまた、その基準が普及した要因も重要であると思う。先に指摘したように、江戸時代では禁令が出ながらも春画や混浴、夜這いといったものは盛んだった。しかしながら、(今のところ印象でしかないが)明治以降は民衆の性モラルが確実に作り変えられていったように思える。そこにある違いは何なのか?今思いつくのは学校教育の普及、法律の整備、「イエ制度」の広がりなどだが、そういった視点から、日本という近代国家がいかにして創造されていったかを検討するのはおもしろいと思うがどうだろうか。
ちなみに、江戸時代には遊郭、連れ込み茶屋などが大量にあったものの、公認されていたのは吉原、新町、丸山などかなり限られていた。しかし明治時代になると、数は減ったけれども公娼制度が作られ、政府の公認のもと遊郭などは経営された。性モラルの変化と遊郭などについての制度の変化という見方もまた、おもしろい視点だと思う。
しかしそれは、明治の中期頃から大きく変化したらしい。そして婚前交渉や離婚の忌避が生じた。江戸時代には処女という存在への拘りはほとんど存在しなかったし、離婚もしばしば行われていたことが指摘されている(『性的唯幻論序説』、『三くだり半と縁切寺』、『人口から読む日本の歴史』)。よく性モラルの低下と言われる際に基準とされるのは、この頃から戦後にかけてのスタンダードである。儒教倫理が民間までしっかりと浸透したことが原因だと私は思っていた。というのも、いわゆる「イエ制度」や名字という武士に特徴的な要素が民衆レベルまで広まったからである(あるいは「適用された」という言い方が適切かもしれない)。しかし『性的唯幻論序説』によれば、そこでの性モラルは外来の西欧的な観念を理想とし、それに基づいて生み出された「恋愛」という言葉が広まって一般的な観念として普及した、という形で定着してきたそうである。これが正しいかどうかまだわからないが、確かに西欧を基準にした視点で様々な慣習、道徳を改変していったことは事実であるから、それが男女関係の理念にまで及んでいることは十分ありえる(もちろん、そこに儒教的な観念も絡んでいると思われるが)。そしてまた、その基準が普及した要因も重要であると思う。先に指摘したように、江戸時代では禁令が出ながらも春画や混浴、夜這いといったものは盛んだった。しかしながら、(今のところ印象でしかないが)明治以降は民衆の性モラルが確実に作り変えられていったように思える。そこにある違いは何なのか?今思いつくのは学校教育の普及、法律の整備、「イエ制度」の広がりなどだが、そういった視点から、日本という近代国家がいかにして創造されていったかを検討するのはおもしろいと思うがどうだろうか。
ちなみに、江戸時代には遊郭、連れ込み茶屋などが大量にあったものの、公認されていたのは吉原、新町、丸山などかなり限られていた。しかし明治時代になると、数は減ったけれども公娼制度が作られ、政府の公認のもと遊郭などは経営された。性モラルの変化と遊郭などについての制度の変化という見方もまた、おもしろい視点だと思う。
江戸・京・大坂・長崎は幕府の直轄地ですから、幕府の出張所である奉行所がおかれてましたし、幕府公認の遊郭があったのです。
と、いうのは武士の家にはしきたりが多く、これが経済的な負担となってましたが、逆に庶民には禁止されていた事柄も多いのです。
庶民は袴をはいたらダメだし、刀を差してはダメだし、苗字も許されないとダメだし、馬に乗ってもダメだし。武士の中でも藩によっては序列があり、下士は白足袋を履いてはダメだったりとか。
商人は士農工商の最下位ですが、お金はあります。でも武家のようにふるまう事は許されないし、武士に対しては平伏しなければなりません。(それが身分)
で、明治維新後、庶民は武士のようにふるまうことを善しとし、逆に喜々として武士の真似をしていったのです。家制度(家長制)は税金をキチンと取るための制度ですが、一般庶民は割と喜んでこれに従った模様。身分というものがステータスだったので、みんな喜んで武士になりたがったというのがあると思います。
しかし、そうなると公娼制度が広がったのはどう考えるべきでしょうか?もちろん、「ホンネと建前」はどんなものにも存在します。民衆に武家的な枠組みを適用してそれまでの性モラルを否定した埋め合わせとして、公娼制度を始めたという部分はあるでしょう。
それでも、その過程で藩閥勢力が遊郭などをどう考えていたのかは興味があります。色々調べたわけではないのでよくわかりませんが、武家階級の人間は遊郭に行ったのを咎められて切腹ということもあったと聞きます。そういった事実が、藩閥勢力や民衆にとってどう考えられていたのか知りたいと思っています。