「『1日3回20分の座り込み』に意味ある?ひろゆきの辺野古ツイートに基地反対派が『完敗』した根本原因」という記事が興味深かったので少し紹介したい。
これは窪田順生によるひろゆき(西村博之)が沖縄の座り込み運動に対して冷笑的なツイートをしたことに対し、一時大炎上が起こったが、結局フォロワーは増えてノーダメージと言ってよい結末になったこと、そしてなぜそのような展開になったのかを考察した記事である。
ひろゆきの物言いは、解釈によりけりなものを自明かのように押し切るいつものパターンだが、それが最終的に大して問題もなく終わったのは、結局日本人自身のデモに対する捉え方の偏りであったり、それへの距離感に背景があるとしている。これについては、「学生運動」、「連合赤軍」、「シラケ世代」といった具合に世情が移り変わっていった結果、デモ自体が異常な行為とみなされるようになったと考えるのは容易だろう(戦前は日比谷焼き討ち事件、米騒動、秩父事件、農民一揆という形で集団による暴力的な異議申し立てや集団での示威行動は枚挙に暇がなく、「日本人は和を好む民族で云々」という説明は端的に誤りであることも付記しておこう。ついでに言えば、中世の自力救済は何度となく指摘しているが、「和をもって尊しとなす」という十七条憲法からもそう遠くない奈良時代は権謀と政争に明け暮れた時代であったことも念頭に置いておきたい。まあ端的に言うと、極めて現代的現象であり、それを無批判に歴史を遡らせるなという話)。
とはいえ、今回書きたいのはそういう精神史についてではなく、社会変革に懐疑的で「長いものに巻かれる」メンタリティ(そして茹でガエルになる)の理解が、「ファスト教養」を求める精神性の解像度を上げる上で非常に参考になるのではないか、ということだ。
これは少し捻じれた構造なので、説明することこうだ。
1.
社会の多くの人間はグチグチ文句を言いながらも社会は変えられないと思っている
2.
変えようとする人間に対しては冷笑的な目を向けることが多い(出る杭は打たれる)
3.
1・2のようなメンタリティは理解はできるが、畜群のそれと言え、先行きがない以上「茹でガエル」となるしかない
4.
しかし社会システムを変えようとして既得権益による抵抗が大変で変化は難しい
5.
ならば社会システムを理解し、個人的努力・工夫で自分個人はサバイブするようにすればいい
6.
畜群のことを救おうとは思わない。そもそも自己責任社会だとわかっていたのによく調べもせず唯々諾々と従っている時点で終わっている。
以上。
なぜこんなことをわざわざ書いたかと言うと、『ファスト教養』を読んでいる際に「出し抜く」という言葉が何度か出てきて、そこに興味を引かれたためだ。これはもちろん市場での生存競争を踏まえた発言であるのは確かだが、そこにはシステムへの強い不信感と、「他はできないが俺はそのくびきから抜け出してやる」という志向性を感じもしたのである。
それを踏まえると上記1~6になるわけだが、もっと身も蓋もない言い方をすれば、「忍耐して茹でガエルになるバカ、システムを変えることに時間をかけるご苦労な人たち、自分はそのどちらにも与しない。ただシステムを正しく理解し、そこを生き抜くためのツールを揃えて自分は上手くやる、それだけだ」となるだろう。
私は前にマンハイムの『イデオロギーとユートピア』を紹介した上で、社会変革を目指すような思想と「ファスト教養」のメンタリティは全く相容れないものだと書いたのは以上のような理由であるし、また「ファスト教養」を求める姿勢がより広がれば、弱肉強食的発想のさらなる拡大はもちろん、一方でシステム変更は求めないので産業界での構造転換は起こらず、単に現行システムで多少の小金持ちになる人間を生み出すだけで終わるだろう。つまり、「ファスト教養」の志向は日本がゲームチェンジャーになる可能性をますます縮減させ、問題を悪化させるだけと予測されるのである(まあこの辺自分も「若い人は将来的にはいつでも海外に出られるようにしておいた方がよい」と言っているので発想はわかるし、全否定をするつもりもないが)。
とりあえず今回はここまで。ではまだ次の記事で。
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