いわゆる「ファスト教養」とその問題点:ビジネス至上主義と検証の不在(軽視)

2022-10-22 17:00:00 | 日記

AI作画の質向上とそれがもたらす影響について数回にわたり記事を書いた。そこでは、質の高い「養殖」モノを安価に手に入れられるようになった結果として「天然」にこだわる必要がなくなった状況や(経済衰退がそれを後押しする)、人が「ノイズ」(多様性・複雑性)より「予定調和」(確定記述の束)を好む大きな流れをさらに加速させるだろうと述べた。

 

AI作画について触れたのは「ファスト映画」「ファスト教養」を求める社会的傾向の分析を補完できると考えたからだが、ここから数回の記事は、また「ファスト教養」を中心に書いていきたいと思う。

 

さて、まず繰り返し使っている「ファスト教養」の定義だが、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』では以下のように説明されている。

1.
ファストフードのように簡単に摂取でき

2.
「ビジネスの役に立つことこそ大事」という画一的な判断に判断に支えられた情報

 

その代表として挙げられているのは中田敦彦の「You Tube大学」である。さて、「ファスト教養」という言葉だけ聞くと、(それこそ「10分でわかる~」のような)1の側面のみがイメージされやすいように思うが、それらを「ビジネスに役立つか否か」という基準だけで摂取していく、という点にも注意が必要である。なぜなら、2こそが本質的に最も重要かつ問題のある部分だと考えられるからだが、以下少し説明を加えていきたい(いささか極端も出てくるが、少々おつきあいいただきたい)。

 

1について、そもそもある知識や現象をコンパクト・平易にまとめたものは本、映画、パンフレット、漫画など様々な形態で昔から存在している。では、これらは専門の論文・研究に比べればかなり加工され飲み込みやすいものとなっているが、これらは「ファスト教養」とは本書の中でみなされていない。

 

その理由を説明するのは簡単だろう。もしこれらも論文や研究に比べればファストフード的だと言うのなら、例えば入門書、事件を一側面から切り取って説明したドキュメンタリー、観光案内のパンフレット、漫画版日本の歴史etcetc...が実態の複雑性に比べて平易にまとめられているからと言う理由で「ファスト教養」と一緒くたにされてしまう。この状況では、もはや専門家が原典史料にあたったり、研究室で実験観察をくり返して得たエビデンスに基づき、さらに専門家たちの査読を受けた論文レベルのもの以外はアウト、といった馬鹿げた話になってしまう(そういった論文ですら誤りが見つかったり、後年新しい研究や資料発見によって更改されるという点で無謬な存在ではないのは言うまでもない)。

 

そもそもどこまでが「ファスト」で、どこからは「ファスト」ではないのか。例えばだらだらと長い陰謀論は「ファスト」ではないのか?学説の精緻なサマリーは「ファスト」なのか?その境界は極めて曖昧である。

 

こうして、1だけにフォーカスすると、定義や評価の妥当性に関する議論がいくらでも出てきて収集がつかなくなることは概ね理解されたと思うが、そこで2が重要になる。以下、その説明をしたい。

(A)正確な内容であるかのファクトチェックが重要である
→この点で前述も中田敦彦の動画などは内容の信頼性が疑問視される

(B)そもそも自然科学の公式の説明でもない限り、無謬な説明というものはない
→だから鵜呑みにせず、常に「 」に入れて聞くクセや、クロスチェックの意識が重要となる

(C)しかし「ファスト教養」の場合、2の傾向から表面的に知っていればいいだけなので、(B)の意識が極めて薄くなる
→だから検証もせずに次から次へと根拠不確かな情報をフォアグラのように詰め込んでいくということが起こる

 

この(C)が極めて問題となる要素だ。例えば、こういう習いの人間を陰謀論などで少しづつミスリードしていくことは容易い。「学校では~と習っていたが、・・・が本当だったんだなあ。勉強になるわ~」という具合に少しづつ特定国家や民族のマイナス情報やらプラス情報やらをインストールしていけば、検証もしない人々は自覚すらせずに狙った方向へと流されていく。そしてこういう類の人々は「わざわざこういう話に興味を持っている自分が偉い・勉強家だ・物を知っている」と自己評価する傾向があるので、誘導され乗せられていることを容易に認めようとはしないだろう(ここで、ナチス・ドイツの支持基盤が没落中産階級のような亜インテリだったことを思い起こすのも有益だろう)。

 

これこそ、私が「ファスト教養」を社会的レベルで危険視する主要因であり、また私が「ファスト教養」に個人的にコミットしない理由の一つでもある(より大きな理由は別稿で述べる予定)。

 

なお、これについて今私は「社会的」という言葉を使ったのでもう少し掘り下げておくなら、wikipediaを始め情報というものはそも玉石混交である。ここであえて「ネットの」と言わないのは、最近に限らずしょうもないレベルの本は日々量産されているし、新聞記事なども愚にもつかない内容をしばしばたれ流しているわけで、ネットとその外を二項対立的に語っても意味がない。要は情報一般への対し方、リテラシーや検証の仕方をこそ体得する(させる)ことが必要なわけで、その意味では学校などで広く取り上げる取り組みは必要不可欠だろう。そこでは、あるものについて調べさせるだけではなく、同じ現象を扱った複数記事をピックアップさせることで、どういう傾向の違いや事実誤認が見られたか、それはどのような背景があると考えられるか、などを考えさせ、話し合わせることが必要となる(もちろん、必要に応じて集合的沸騰や認知的不協和理論なども教えるべきだ)。

 

こうして徹底的にワクチン化しなければ、情報の洪水に流され、プライベートはSNS地獄にさらされている子供たちの多くがリテラシーを身に着けていくことは不可能事と言っていい。その上で、あとはすでに成人している人々の解毒化をどう行うかという話だが、こちらは孤立化が進み、経済も衰退している状況から「ファスト教養」的発想はむしろ加速すると思われるので、なかなか難しい問題であるように思われる(しかも前述のように「自分は努力していてそれなりに賢い」と自認している人間が多い節があるので、覚醒の埋め込みは容易なことではない)。この点については今後の課題としたい。

 

以上が今回の内容である。次回以降、これに続く記事をいくつか掲載していくこととしたい。ではまた。


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