前に「生や死の持つ『暗闇』」を書いたが、それに関するコメントで「筆者の意見がわかりにくい」とのご指摘を受けたので、補足説明をしておきたいと思う。
まず、議論の対象。過去ログ「生や死について:『無知』と信奉」で言及しているように、日本における死生観を特に問題としている。なぜそれが問題になるかと言えば、そこに宗教についての「無知」「毛嫌い」とともに、その反動として科学や合理への「信奉」が存在しているのではないかと考えるからだ。よって、対象を単純化するなら(誤解を招く恐れがあるためあまり使いたくない言葉だが)、「科学至上主義」に対する批判的文章という側面もある(これについて、人々の宗教観の問題を既に述べていたため、「生や死の持つ~」では、記述を省いてしまったことで誤解を招いたかもしれない。近いうち文章を再編集してそういったことのないようにしたいと思う)。私が「生や死の持つ~」で書いたのは、そういった宗教や科学に対する認識、及びそれがもたらす可能性のある現状の生や死に対する問題への誤った認識に対する批判であった(その意味では、記事の主張が「分からないことを分からないと認識することが大事」であると見たかわぴょん氏の読みは的確なものであったと言える)。
以上のような視点で文章を読み返してもらえば、私がフォント・色を変えて強調した必然性が理解してもらえるのではないだろうか。しかし念のため、これについても書いておこう。
◎「人にとってなお生や死が「暗闇」である事実は変わらない」
主張であり、最も肝心な部分。
◎「「偶然」もまた一つの推測に過ぎない」
生や死の問題に意味づけを行ってきた宗教への反動から、こういった見解を持つ人が増えている可能性を考慮しての文章。「偶然」ということは証明されておらず、ただ反動からその見解を支持するなら、それは「かくあれかし」という願望に過ぎない(無意味と言っているのではない)。
◎「生や死がリアルなものである以上、それを純粋に観察の対象物にしておくのが不可能に近い」
◎「人間は理解できないものに対して不安や恐怖(時に興味)を覚える性質がある」
「『わからない』ものは『わからない』のだ」として、証明された事柄や事象の性格について厳格な態度を取るのは(特に学問的には)尊重されるべきことだと思う。しかし、我々が実際に生き、死んでいく以上、そこに恐怖や興味は付きまとうものだ(わからないものに対して人間がどんな反応を示すかは既に述べたとおり)。であるならば、生や死が未だ「暗闇」であることをしっかり認識することが重要であるとともに、そこに(強引でも)人が答えを求めようとするメカニズム・必然性を理解することも必要であると思われる。言い換えれば、事実がそうだからといって丸投げするのではなく、そうした人々の思考・行動のメカニズムも考慮に入れるべきだ、ということである(宗教に帰依する人=弱いという単純で痩せた見方に対するアンチテーゼの意味合いを持つ)。ちなみに、これより前は人々の死生観の現状に対する認識について批判的に書いているが、ここからは、主に学術の側から人々の認識を「非合理的」「非科学的」と切り捨てる行為に対する戒めという意図で書かれている(実のところ、そうやって批判する人間は学術的だと思い込んでいるだけの場合が多いのでタチが悪いのだが)。
◎「先人がどれだけ思索を重ねようと、ヒトの生が一回的なものである以上、「暗闇」は常に生々しい迫力を持ち続けているのだ」
これも、学術などの立場から人の「暗闇」への反応を全く理解しようとしない姿勢に対する批判的な言辞。ほとんどの人は、そもそもかなり限定された知識のもとで生きているという現実を忘れてはならない。さらに経験則(とそれに基づいた実感)については、誰もみな真の意味で共有することはおよそ不可能である(ラディカルに言えば、自分の都合のいいように解釈してるだけ)。
◎「支配的な死生観が存在する中では、それをラディカルに否定することが強い意味を持ったであろうが」
これも問題の対象となっている宗教への「無知」「毛嫌い」を念頭に置いた発言。支配的な思考の前提に対する挑戦という意味では、伝統宗教の死生観を否定することは必然性も意味合いもあったろうが、宗教・死生観も選択の時代になっている今、もはやそういう段階は過ぎているのではないか、という意味の主張。
◎「私は宗教を勧めているのでもなければ、スピリチュアルな思考に帰れと言っているのでもない」
前述したようなことが問題の対象である以上、この強調は絶対に必要。
長くなったが、以上のような思考のもとに書かれているのだということを補足しておこう。
まず、議論の対象。過去ログ「生や死について:『無知』と信奉」で言及しているように、日本における死生観を特に問題としている。なぜそれが問題になるかと言えば、そこに宗教についての「無知」「毛嫌い」とともに、その反動として科学や合理への「信奉」が存在しているのではないかと考えるからだ。よって、対象を単純化するなら(誤解を招く恐れがあるためあまり使いたくない言葉だが)、「科学至上主義」に対する批判的文章という側面もある(これについて、人々の宗教観の問題を既に述べていたため、「生や死の持つ~」では、記述を省いてしまったことで誤解を招いたかもしれない。近いうち文章を再編集してそういったことのないようにしたいと思う)。私が「生や死の持つ~」で書いたのは、そういった宗教や科学に対する認識、及びそれがもたらす可能性のある現状の生や死に対する問題への誤った認識に対する批判であった(その意味では、記事の主張が「分からないことを分からないと認識することが大事」であると見たかわぴょん氏の読みは的確なものであったと言える)。
以上のような視点で文章を読み返してもらえば、私がフォント・色を変えて強調した必然性が理解してもらえるのではないだろうか。しかし念のため、これについても書いておこう。
◎「人にとってなお生や死が「暗闇」である事実は変わらない」
主張であり、最も肝心な部分。
◎「「偶然」もまた一つの推測に過ぎない」
生や死の問題に意味づけを行ってきた宗教への反動から、こういった見解を持つ人が増えている可能性を考慮しての文章。「偶然」ということは証明されておらず、ただ反動からその見解を支持するなら、それは「かくあれかし」という願望に過ぎない(無意味と言っているのではない)。
◎「生や死がリアルなものである以上、それを純粋に観察の対象物にしておくのが不可能に近い」
◎「人間は理解できないものに対して不安や恐怖(時に興味)を覚える性質がある」
「『わからない』ものは『わからない』のだ」として、証明された事柄や事象の性格について厳格な態度を取るのは(特に学問的には)尊重されるべきことだと思う。しかし、我々が実際に生き、死んでいく以上、そこに恐怖や興味は付きまとうものだ(わからないものに対して人間がどんな反応を示すかは既に述べたとおり)。であるならば、生や死が未だ「暗闇」であることをしっかり認識することが重要であるとともに、そこに(強引でも)人が答えを求めようとするメカニズム・必然性を理解することも必要であると思われる。言い換えれば、事実がそうだからといって丸投げするのではなく、そうした人々の思考・行動のメカニズムも考慮に入れるべきだ、ということである(宗教に帰依する人=弱いという単純で痩せた見方に対するアンチテーゼの意味合いを持つ)。ちなみに、これより前は人々の死生観の現状に対する認識について批判的に書いているが、ここからは、主に学術の側から人々の認識を「非合理的」「非科学的」と切り捨てる行為に対する戒めという意図で書かれている(実のところ、そうやって批判する人間は学術的だと思い込んでいるだけの場合が多いのでタチが悪いのだが)。
◎「先人がどれだけ思索を重ねようと、ヒトの生が一回的なものである以上、「暗闇」は常に生々しい迫力を持ち続けているのだ」
これも、学術などの立場から人の「暗闇」への反応を全く理解しようとしない姿勢に対する批判的な言辞。ほとんどの人は、そもそもかなり限定された知識のもとで生きているという現実を忘れてはならない。さらに経験則(とそれに基づいた実感)については、誰もみな真の意味で共有することはおよそ不可能である(ラディカルに言えば、自分の都合のいいように解釈してるだけ)。
◎「支配的な死生観が存在する中では、それをラディカルに否定することが強い意味を持ったであろうが」
これも問題の対象となっている宗教への「無知」「毛嫌い」を念頭に置いた発言。支配的な思考の前提に対する挑戦という意味では、伝統宗教の死生観を否定することは必然性も意味合いもあったろうが、宗教・死生観も選択の時代になっている今、もはやそういう段階は過ぎているのではないか、という意味の主張。
◎「私は宗教を勧めているのでもなければ、スピリチュアルな思考に帰れと言っているのでもない」
前述したようなことが問題の対象である以上、この強調は絶対に必要。
長くなったが、以上のような思考のもとに書かれているのだということを補足しておこう。
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