1943年のポーランド。
道に転がる死体を、軍人たちが片付けていく。それをまるで日常のように横目で通りすぎる人たち。そんな描写の後、けだるい雰囲気の室内へと場面は移る。そこではいわゆる「芸術家」たちが集まって、戦争の激化する中、浮世離れした芸術談義をしている。そして男と女のエロティックなかけ合い。これらは、来る退廃的なエロスを予感させるに十分なものである・・・と思ったら、いきなり田舎へ移動wここで友人の娘に出会い・・・
え、何の話かって?こないだ借りた「セクシー」DVDの片割れですよ。ポーランド映画のね。最初から借りるのがきまっていたわけではないので、適当にジャケットを見ながらイケニエを物色していた時、ジャケ裏を見て俺に激震が走った。というのもそこには、顔こそ見えないが後ろから胸を鷲掴みする男の粗野な腕と、それを上から握る白き艶やかな手がえも言われぬコントラストとエロスを醸し出していたからだ。
何を隠そうこの私、小学生の時にゴルゴ13の第一巻(ビッグセイフ作戦」)を読んで以来、「後ろから胸を鷲掴みする男の手を握る女性の姿を見ると理性を一瞬にして失う症候群L5」にかかっておりまして、思わず息子、もとい喉を掻き毟りそうになったわけであります。そんなワシがどうしてこの逸品を借りないことがあろうか、いやない。ま、それに東欧の女性は(残酷なタイマーはあるけれどもw)非常にエロスだからねえ。ユリアとかハンパなくエロいし(;´Д`)ハァハァ
姦話休題。地主の娘に出会った芸術家の片割れは、彼女に婚約者がいるが不釣り合いと思い、幼馴染とくっつけようという算段をする。乗り気でない主人公を巻き込みながら。全くのところ銃後の暇人のなせる業である。ただ、夜の銃撃戦や兵士たちの行軍を対象的に描いていることから、製作者が意図しているのは明らかである。つかこれ本当に「セクシー」DVDか?なんかやたら視覚や聴覚を強調しようとする描写もあるし。ぬぅ、なんだか嫌な予感がしてきたのう・・・(男塾風に)。
まあそのうちナニかあるだろうと予測していたら、お手伝いの少女が出てきて次は主人公が愕然とする描写。なんじゃらほい?一目惚れ・・・てわけでもなさそうやね。ピアノイベントで好感度アップ。そして馬小屋で少女が服を・・・これはきたか!と思ったらなぜか嗜める相棒。おいおい客の要望をメタで読まんかい、なんてなwうーむ、明らかにティーンって時点でヌードとか露骨な絡みはそもそも無いと予測しておくべきだったわorzじゃがしかし、人間は理性のみに生くるにあらず、なのだ。「ええいこんな時に『後ろから(ry)症候群』とは間の悪い!」というヤツで、たとえ己が痢性がどれほど警告を発しようとも、突き進まねばならぬ時が人にはあると知れ(`・ω・´) シャキーン
つうかこのピアノ曲はショパンか。これは一体どんな意味が込められているのだろうか?たとえばフランス七月革命の影響で起きた(ロシアに対する)祖国ポーランドの蜂起とその失敗に対し、「革命のエチュード」という作品を残すなどしている。つまりポーランドにおいて、ショパンは音楽家(芸術家)以上の特別な意味を持っているわけだ。え、この作品で出てくるのってポーランドとドイツでロシアは関係なくね?と思うかもしれないが、当時ポーランドは独ソ不可侵条約を結んだドイツとソ連から同時に攻め込まれ、二つの国によって蹂躙された状態だった。また、1943年はスターリングラードにてドイツがソ連に大敗を喫して後退に後退を重ねていくわけだが、そのことが戦後のポーランドの独立を意味しなかったことを今日の我々はよく知っている。そう、ポーランドは共産主義国としてソ連の衛生国家となったのである。そのような文脈を念頭に置くと、演奏シーンで登場人物たちが神妙な面持ちで聞いているのは必然的なことであるし、またその演出の意図をあれこれ考えずにはいられない。もっとも、最初に箱庭の芸術家たちとでも言うべき描写が出てくるので、それをそのままストレートに繋げるのもちと躊躇われるが。
で、肝心のおっさんプレゼンツのカップリング作戦だが、言いだしっぺが過酷な現実=戦争に苦しめられる人々を見て「やめるべ」と言い出す。最初から何度も描かれるコントラストを思えば当然の反応であり、冷静に言えば今さら「リアル」に気づいたのかよ(゜∀゜)アヒャヒャヒャヒャとも言えるが、ここで最初は乗り気じゃなかったはずの主人公が「ま、いーんじゃね?」とそのまま突っ走る。一体こりゃどーゆーことでっか?
こっから心にかかるよしなし事を書いてたら大変な分量になるので割愛すると、終盤の主人公の告白シーンで話の根幹はおおよそ見える。つまり冒頭の謎のシーンも伏線であって、お手伝いの少女がトリガーになって、一気に「たが」が外れたのだろう。ただ、他の人物(たとえば弁護士や将軍)のわかりやすい壊れ方と違って、それは非常に見えにくい。たとえば前述のカップリング作戦に関して、一見すると言いだしっぺがお節介・酔狂で、腰が引ける主人公の方が「まとも」に見える。でも、前者はちょっと生の現実を見れば目が覚める程度のレベルにすぎず、むしろ主人公の方が徹底して壊れていることが最後でわかる。「壊れている」と言うとただ暴走する人間のように思いがちだが、そうではなく、冷静に見えて歯止めがなくなっているのである。それはある種、顔色一つ変えずに人殺しをするのに似ている。全く正常に見えて、しかし実際は彼にとっての世界は底が抜けてしまっている(それは相棒の計画中止の申し出をスルーしてすがすがしく農作業を続ける姿などに象徴的だ)。こう考えてくると、主人公が絶望する娘の婚約者に対して「それでも生きていかなきゃいけないんだ!」と言ったあとで声を枯らす奇妙なシーンは、心の底からの言葉だったのでそうなったことを象徴しており、逆に言えばそれ以外は茫洋とした言葉遊び・夢遊びにすぎないということなのだろう。フランクルの『夜と霧』や「嘲笑の淵源」を思い出しながらそんなことを考えた。
ちなみに、肝心のシーンはものの15秒ほどであって、さすがにその短時間では「後ろから(ry)症候群」の俺であってもカタルシスを得るのは不可能であった。あるいはもし、そのままの勢いでスティックをラブし続けたら、殺人シーンあたりでスプラッシュしていたかもしれないwもしそうなっていたら、主人公の領域を超越してヴァルハラにまで逝けたものを!と舌打ちしたポロリ13世でありました。
その他、婚約者の母親=神を信じた人格者の理不尽な死、主人公が無神論者であること、婚約者の地主一家の死は来る共産主義下での受難を暗示してるのかもしれん、とか様々なことを思ったが、色々違う方面に集中していたのでまとまった嗜好ができておりませぬヽ(。∀゜)ノまあとりあえず、残酷な戦闘シーンを描けば戦争の過酷さが描ききれると思うのは単純すぎだ、ということだけは確かだろう。
さて、次は何の「セクシー」DVDを借りようかな・・・
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