かなりドギツイ内容になるかもしれないので、そういうのが嫌な人は読まないことをお勧めする。
前に「結果からの正当化を戒める」という記事を書いた。それは「あくまで当時の状況において、どんな方向性がありえたかを考える」という意味だったのだが、コメントの内容からどーーも理解されていないんじゃないかという危惧を持っている。そこで、例を挙げて内容を明確にしておきたい。
当時、プレイヤーにとってひぐらしの方向性には色んなものがありえた。そもそも、ひぐらし自体が一度大きな方向転換を図っているのだからそれも当然だ(過去ログ「ひぐらしの初期の方向性」などを参照)。とすれば、当時方向性に関する色々な解釈が出てきたことはまったく必然的なことであった(例えば俺が批判的に書いている「人為100%」についても同じだ)。
とすれば、そういった当時の方向性を批判したりする場合、「そうは言えない根拠があり、その方向性は不可能だった」ということを、根拠を挙げながら論理的に立証できなければならない。でなければそれは「結果からの正当化」でしかないし、根拠の無い願望に過ぎなかったという点で「人為100%」などと「同じ穴のむじな」なのである。当時において、ある方向性に対する解釈と角突き合わせたとき互角以上の戦いができたかどうか、私が重視するのはまさにそこである。
ゆえに、ひぐらしは「物語」だったとか「小説」だったとかジャンルはSFだホラーだと今になって賢しらに論じる者は考えてみるがよい。当時それがいかなる根拠によって証明可能であったかを!!くり返すが、それができない人間には推理モノとしてひぐらしを捉えていた人間を批判する資格など全く無い(証明可能なことは後述)。
全くうんざりである。ひぐらしが長い期間を経て完成してきたことを真の意味で理解していないのだから。さて、ここで終われば所詮俺も同じ穴のむじなだ。では、当時いかにして「人為100%」を批判する、すなわちひぐらしにオカルトなどの要素が混在していることを論理的に証明できたか、ということについて述べよう(過去ログ「ひぐらしのなく頃に:人為100%で推理して失望した人へ」なども参照)。
一番わかりやすいのは、鬼編TIPS「セブンスマートにて。」である。かいつまんで言うと、この時圭一はレナが後ろを付けてきて自分の買い物を覗いていたことを疑っている(異常な精神状態であるがゆえに以下の論証がなり立つことをあらかじめ強調しておく)。とすれば、彼の疑いが強ければ強いほど背後にいるのはレナでなくてはいけないし、また事実がそうであれば「やっぱり見ていたのか」というぐらいでそれほど驚くべきことではない。にもかかわらず、彼は非常に戸惑い、驚き、恐怖する。重要なのは、(回想ではあるが)背後に実際何かいたこと、そしてそれを理解するのに時間がかかったことである。とすれば、圭一の疑心暗鬼の深さを知る我々は、背後にいたものがレナではない(おそらく魅音でもない)何かであり、しかもそれが恐怖を伴う存在であったという結論に到らざるをえない。
ここから、後ろにいたのは「この世に存在してはいけないもの」だったと考えられる。とすればそれは、「死んだはずの人」か「人外」だろう。鬼編で「死んだはずの人」といえば富竹しかいない(圭一の認識で言うと鷹野は失踪扱いだし、連続怪死事件の被害者についてはそもそも顔を知らない)が、それにしても死んだはずの人間が生きているということは(死体を偽造しているということだから)相当な理由があるわけで、圭一の監視が目的かは知らないが、少なくとも衆目に晒される場に姿を現すことはありえないと言っていい。ゆえに、残った「人外」が正解となる。これは死者の幽霊か異形(≒オヤシロさま)と考えられるが、前の日に玄関付近の足音&「女の声」があり、足音が共通していることを考慮すると、少なくとも富竹の幽霊ということはありえないだろう。つまり、女の幽霊か異形であると結論できる。
そして最も重要なのは
いずれにしても、オカルトが入ってくることを論理的に証明できたことだ。このようにして、人為100%の否定とオカルトの混入が論理的に説得力をもって証明できたのである。
もしこういった説得力のある論理的証明をできなかったのなら、今「物語」だとか「オカルト」だとかジャンルがどうこう言っても、全て「結果からの正当化」に過ぎない。ましてや、「オカルトを論理的に証明できるのか」などと疑問に思ったのなら、上で述べたようにオカルトの混入すら論理的に証明できるひぐらしの凄さ・恐ろしさをも全く理解してなかった(し今もしていない)と言える。
感動に酔う暇があったらもう一度鬼編からやり直せ。厳しいが今の俺が言うべきことはそれだけだ。
魂無き者に作品を論じる資格なし。
前に「結果からの正当化を戒める」という記事を書いた。それは「あくまで当時の状況において、どんな方向性がありえたかを考える」という意味だったのだが、コメントの内容からどーーも理解されていないんじゃないかという危惧を持っている。そこで、例を挙げて内容を明確にしておきたい。
当時、プレイヤーにとってひぐらしの方向性には色んなものがありえた。そもそも、ひぐらし自体が一度大きな方向転換を図っているのだからそれも当然だ(過去ログ「ひぐらしの初期の方向性」などを参照)。とすれば、当時方向性に関する色々な解釈が出てきたことはまったく必然的なことであった(例えば俺が批判的に書いている「人為100%」についても同じだ)。
とすれば、そういった当時の方向性を批判したりする場合、「そうは言えない根拠があり、その方向性は不可能だった」ということを、根拠を挙げながら論理的に立証できなければならない。でなければそれは「結果からの正当化」でしかないし、根拠の無い願望に過ぎなかったという点で「人為100%」などと「同じ穴のむじな」なのである。当時において、ある方向性に対する解釈と角突き合わせたとき互角以上の戦いができたかどうか、私が重視するのはまさにそこである。
ゆえに、ひぐらしは「物語」だったとか「小説」だったとかジャンルはSFだホラーだと今になって賢しらに論じる者は考えてみるがよい。当時それがいかなる根拠によって証明可能であったかを!!くり返すが、それができない人間には推理モノとしてひぐらしを捉えていた人間を批判する資格など全く無い(証明可能なことは後述)。
全くうんざりである。ひぐらしが長い期間を経て完成してきたことを真の意味で理解していないのだから。さて、ここで終われば所詮俺も同じ穴のむじなだ。では、当時いかにして「人為100%」を批判する、すなわちひぐらしにオカルトなどの要素が混在していることを論理的に証明できたか、ということについて述べよう(過去ログ「ひぐらしのなく頃に:人為100%で推理して失望した人へ」なども参照)。
一番わかりやすいのは、鬼編TIPS「セブンスマートにて。」である。かいつまんで言うと、この時圭一はレナが後ろを付けてきて自分の買い物を覗いていたことを疑っている(異常な精神状態であるがゆえに以下の論証がなり立つことをあらかじめ強調しておく)。とすれば、彼の疑いが強ければ強いほど背後にいるのはレナでなくてはいけないし、また事実がそうであれば「やっぱり見ていたのか」というぐらいでそれほど驚くべきことではない。にもかかわらず、彼は非常に戸惑い、驚き、恐怖する。重要なのは、(回想ではあるが)背後に実際何かいたこと、そしてそれを理解するのに時間がかかったことである。とすれば、圭一の疑心暗鬼の深さを知る我々は、背後にいたものがレナではない(おそらく魅音でもない)何かであり、しかもそれが恐怖を伴う存在であったという結論に到らざるをえない。
ここから、後ろにいたのは「この世に存在してはいけないもの」だったと考えられる。とすればそれは、「死んだはずの人」か「人外」だろう。鬼編で「死んだはずの人」といえば富竹しかいない(圭一の認識で言うと鷹野は失踪扱いだし、連続怪死事件の被害者についてはそもそも顔を知らない)が、それにしても死んだはずの人間が生きているということは(死体を偽造しているということだから)相当な理由があるわけで、圭一の監視が目的かは知らないが、少なくとも衆目に晒される場に姿を現すことはありえないと言っていい。ゆえに、残った「人外」が正解となる。これは死者の幽霊か異形(≒オヤシロさま)と考えられるが、前の日に玄関付近の足音&「女の声」があり、足音が共通していることを考慮すると、少なくとも富竹の幽霊ということはありえないだろう。つまり、女の幽霊か異形であると結論できる。
そして最も重要なのは
いずれにしても、オカルトが入ってくることを論理的に証明できたことだ。このようにして、人為100%の否定とオカルトの混入が論理的に説得力をもって証明できたのである。
もしこういった説得力のある論理的証明をできなかったのなら、今「物語」だとか「オカルト」だとかジャンルがどうこう言っても、全て「結果からの正当化」に過ぎない。ましてや、「オカルトを論理的に証明できるのか」などと疑問に思ったのなら、上で述べたようにオカルトの混入すら論理的に証明できるひぐらしの凄さ・恐ろしさをも全く理解してなかった(し今もしていない)と言える。
感動に酔う暇があったらもう一度鬼編からやり直せ。厳しいが今の俺が言うべきことはそれだけだ。
魂無き者に作品を論じる資格なし。
ただ、論理と呼ぶには若干弱いと感じられる箇所が有るように思われます。
確かに圭一の反応からすると、彼が「セブンスマートで自分の背後にいたのはレナではない」と相当強く確信しているのはほぼ確実でしょう。
しかしながら、「レナではない」と彼が判別できている以上、それは圭一の理解が及ぶものでなければならない筈です。
もしそうではない、即ち圭一がコンビニで自分の背後にいたのを判別できていないと仮定すると、彼はそれを人外であると信じ込み、
レナはそいつの仲間もしくはそいつが化けているとかそんな事を考えるような精神状態であったという事になります。
即ち、あれが(当時の情報のみから)人外であると「論理的に証明できた」という主張の根拠は、圭一自身の平静ではない精神状態に起点を置くものです。
さて、このような精神状態の人が、回想の中で起こった事から存在すると推測する「人外」なるものの実存を信用する事が、果たして論理的と言い得るものでしょうか?
それは穂高山麓の地下に河童の国が存在する事を「論理的に証明できた」と主張するのと何ら変わりのない行為ではないでしょうか。
>論理と呼ぶには~思われます。
この点、見返してみてご指摘の通りだと感じます。ただ、あなたの説にはやや首肯できない部分があるので、それを説明した上で自説の問題点を書いておきます。なお、以下の説明は問題編の段階(暇潰し編)までプレイしての状態を念頭に置いています。
>圭一自身の平静ではない精神状態
あえて聞きますが、そうおっしゃる根拠は何でしょうか?ここが私にはよくわかりません。今でこそ症候群の話は常識になっていますが、問題編の段階では村の状態が異常であって、圭一の知覚は別に異常な状態になっていないとする考えることも普通に可能です。というより、鬼隠し編の「正解率1%」の謳い文句があるように、彼の知覚こそが異常だったのだと考えるのは当時むしろ少数派だったように思いますが(「注射器」は極限状況での取り違えという具合に部分的な誤認を想定する意見はあったにせよです)。もしプレイされたのでしたら、「うみねこのなく頃に」とは全く状況が違った、と言えばわかりやすいと思います。
とはいえ、あのTIPSで示されているものが完全に信用しきれるものだという根拠にはなっていない、というのも事実です。
精神が異常だとする可能性も考えられるが、むしろそれゆえにこそ、あの場にいるのは情報を知っているレナか魅音だと「たとえ本当はそうでなかったとしても」そうだと思い込むはずだ(=枯れ尾花を幽霊だと思い込む状態)。
と当時は考えていましたが、その「人外」がレナor魅音に情報を伝えたと考えることも不可能ではありません。もっとも、TIPSでも本編でも全くそういう推論は出てこないので、やや強引な印象はありますが。
いずれにしても、ご指摘ありがとうございます。
御返答ありがとうございます。
>>圭一自身の平静ではない精神状態
>そうおっしゃる根拠は何でしょうか?
それは無論、
圭一が「人ならざるもの」などという存在を知覚している可能性が高いから
です。
引用した河童の例においても、「ある精神病院の患者、――第二十三号」がそもそも精神病院に入る事になったのは、他の人間にはおよそ理解できない「河童というもの」の存在を主張しているからに他なりません。
(無論、その件に関して偏執的になり自制が効かぬからという理由も有るでしょうが)
ひぐらしの件についても、圭一が超常的な存在を知覚しているとして、その事実そのものを理由として「ならばそれが存在するのだ」ではなく「ならば圭一の感覚が普通のそれとは違うのだ」と考えたとしても不自然ではない筈です。
加えて、「ならば圭一がレナと魅音を疑っていた以上、全てを彼女達に結び付ける筈だ」という理論も、ここでは意味を成さなくなります。
圭一の状態があくまでも疑心暗鬼による逼迫に過ぎず、物の捉え方や考え方自体は正常であると仮定するならその通りでしょうが、それをさらに一歩超えた段階まで――他人と物の捉え方すら異なる――進んでしまっていたとすれば、「レナ達のせいにする筈だ」という、言わば『正常な』理屈に価値が無くなってしまうからです。
無論、当時(問題編)において私が「圭一がそこまで重篤な精神疾患であった」とういう理論的な証拠を持っていた筈はありません。この説はあくまでも当時「有り得る説の1つ」に過ぎませんでした。
しかしながら、あの時点で「オカルトが入ってくることを論理的に証明できた」と主張するのならば、その説によってオカルトが入っていなくても成り立ち得る説は全て否定されなければならない筈です。
私が「論理的に証明」という部分に疑問を持つのは正にこの点です。確かにオカルトが入って無理のない説が有る以上、100%人為が確実でオカルトは絶対に無い主張するのは無理です(オカルトを完全否定してないから)。しかしながら、それはあくまでオカルトが入っている可能性が有るに過ぎず、人為100%の否定、ならびにオカルト混入の証明にはなっていない、と考えるのです。