ブレグジットの話は2/4にも書いたが、これは近代を特徴づける「資本主義・国民国家・民主主義」というトリアーデの「終わりの始まり」なのだろうか?
いやいやちょっと待て。そもそも「EUに自国の国家主権が侵されているいるという危機感・不快感であったり、自分の雇用・生活を守るためにEUから離脱する」というのがブレグジットなわけだから、むしろ近代的価値観が強く表出した結果と言えるんじゃないか?
という反論が出るかもしれない。しかし、離脱後の様々な困難、すなわち各国とのFTAの締結であったり税関の問題などを見ればわかるように、資本主義(ここでは「経済合理性」ぐらいの意味だが)の観点からすれば離脱には数多くのデメリットが伴うのである。まず、この点において前述のトリアーデが岐路に立っていることを指摘することができる(なお、これを自国産業を守るための保護貿易政策と同様に捉える人がいるかもしれないが、少なくともブレグジットの場合それは当てはまらない)。
加えて、ブレグジットに関する国民投票とその後の対立が典型的だが、国内が一枚岩では全くないという現実が可視化された点が重要である。ある国民、ある人種が揃って同じベクトルに向っているなどというのはもちろん幻想以外の何物でもないが、それが全き幻想であることが明示され、かつ分断が深刻化しているのだ(しかも、先のトリアーデVS別の価値観という対立ではなく、その中のどの要素にプライオリティーを置くかという点での対立である点にも注意を喚起したい。というのも、そこでもまたトリアーデが鼎立することの困難さが示されているからだ)。
以上の理由から、ブレグジットとは「資本主義・国民国家・民主主義」という近代を特徴づけるトリアーデの「終わりの始まり」と考えることができるが、このようにして始まった分断は、次々と拡大していく可能性を秘めており、スコットランドの独立運動、アイルランドにおけるシン・フェイン党の躍進はその典型例と言える。ここから直接的に連想されるのはカタルーニャ独立問題の再燃であろうが、別のレイヤーではEU内の分断加速→ロシアのヨーロッパへの影響力増大といった現象も考えられる(クリミア問題とその後の経済制裁及びそれへのロシアの反応を想起。古い図式ではあるが、西側諸国=自由主義陣営を警戒するロシアとしては、攻勢防御の意味合いも兼ねて東欧に影響力を浸透させる動きを取るだろう)。
これ以外にも、独仏のエルザス・ロートリンゲン(あえてこう表記してみる)問題、イギリスのジブラルタル領有、フランスのコルシカ島領有など現在の国境線がtemporaryなものに過ぎないことを示す事例は枚挙に暇がなく、ヨーロッパ以外でも、アフリカの国境線が列強による恣意的な分割に伴うものでそれが民族紛争を惹起していること、あるいは中東でいえばWWⅠの後にサイクス=ピコ協定に基づいて国境線策定がなされていることを想起することができる。
要は、数百年前に生み出され、それが世界中に広まったため余りに自明となってしまった枠組みが、当然のこととして自明でも永遠でもないことが改めて現象していると言える。これは、全くのところ観念論なのではない。
第二次大戦中のユーゴスラヴィアの状況は、私たちが拠って立つ枠組みが砂上の楼閣に過ぎないことを示す事例の一つと言えよう(ついでに言えば、ユーゴスラヴィアの解体やコソヴォ紛争などはご存知の方も多いと思うが、そこで問題視されたセルビア人の民族浄化という行為も、第二次大戦中に起きたクロアチア人によるセルビア人大量虐殺という行為を無視して語ることはできない)。
もちろん、今述べたことをそのまま「国家の解体」に直結させるのは飛躍が過ぎるように思える。何となればそこには、国防や外交といった要素が深く関係してくるからだ(たとえばここで、暴力革命の後に対仏大同盟的な周辺諸国の反応を予測して強力な一党独裁を訴えたマルクスと、それを新たな抑圧装置として拒否して無政府主義を訴えたバクーニンの対立を想起するのも有益だろう)。
ともあれ、グローバル化による流動性・複雑性・多様性の増大が人々の不安を大いに惹起し、それゆえ「自由からの逃走」が生じて流動性や複雑性を防遏するため、移民排斥などの行為に走る人々がいる。一方で、グローバル経済の元で利益を享受し、「障壁」のさらなる撤廃を望む人々もいる。加えて民主主義についても、ボーダーが曖昧になってくれば当然、どこからどこまでが政治に参加する資格を持つのか、すなわち、「国民」とは誰なのか、「我々」とはどこからどこまでを指すのかという問題が惹起するのは当然のことと言える。
かかる深刻な対立の激化を踏まえる時、新反動主義者や加速主義者たちがもはや合意不可能を前提として、薬物やVRで各々の幻想に耽ってどうぞと提案する態度は、リチャード=ローティのリベラルアイロニズム的思考を軸に踏まえる身として、極めて必然的なものと写るのである。
これを「諦め」だとして拒否したい者は、困難な現実への対処法をそれだけ一層真剣に考えねばならないと述べつつ、この稿を終えることとしたい。
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