前提を失った言葉は「規律」である

2007-01-08 23:36:19 | 抽象的話題
言葉は、その前提が失われたとき、ほとんどの場合において有害なものとなる。例えば、「芸術は感情の奔流から生まれる」という言葉があったとしよう。思うにこの言葉は、「芸術は手法や論理だけで成り立っているし理解もできる」という見方への反論としてなら非常に重要なものだ。しかしながら、もしこの言葉だけを取り出し、「芸術において感情が優先する」だとか「論理で計れぬものこそ芸術だ」などと言い出すなら、言葉に踊らされているだけと言える。


なぜそう言えるのか。例えば有名なミケランジェロのダヴィデ像。あの神がかり的な均整が感情のみによって生まれたとでも言うのだろうか?あるいは、あの均整の価値が感情のみによって理解できるとでも?少なくとも私にはそのやり方が生産的だとも可能だとも思えない。次に、大人数で作る建築について考えてみよう。その荘厳さや華麗さで人を感動させ、「芸術」と思わせるような建築物は数多くあるが、言うまでもなく建築には高度な技術や計算が必要とされる。それは到底感性に優先順位を置いて生まれるものでもないし、ましてや感性のみによって成立するものではない。芸術は確かに心に訴えるものであるため、先に挙げた「芸術は感情の奔流から生まれる」という言葉に賛同する人は多いだろうが、それは芸術が感性・感情だけで成立するものであることを意味しないのである。


結論に移ろう。その言葉が、どういう前提をもとにどういう目的で話されたのか考えずに受け入れていくなら、それは言葉ではなく「規律」となる。その行為は二重の誤りを含んでいる。すなわち、一つはその言葉を真の意味で理解していないこと。そしてもう一つは、その誤解をもって「規律」とし、自分で当該の問題を考えることを放棄してしまうことである。この二重の誤りによって、人は「生ける存在」から「動く物体」へと堕する。世の中は聞こえのいい言葉で溢れている。それは実のところ、広く普及している名言から常識や慣習にまで及ぶほどだ。しかし、それらは殆どの場合固有の前提や目的によって生まれてきた。もし「生ける存在」でありたいなら、それらを深く考えることが必要不可欠であると言えるだろう。
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