さて、「日本人はいかにして多数が無宗教と自認するになったか」のフラグメントから一週間経った。これも同じく日本人の無宗教に関する覚書である。ちなみにサブタイトルの『寺院消滅』については、「日常アールデコ 続」(2018/11/23)の記事にも登場している。
日本の無宗教に関する言説への批判は、前述の「日本人はいかにして~」でも述べたことなので繰り返さない。ただ、そのような言説への批判を深化しつつ新しい視点を構築する上で、今回の『寺院消滅』は、仏教を一つの社会システムとして理解し、また法や共同体の変化といった別の社会システムとの関連性を考察することの重要性が、実態に即して説かれており興味深い。
また、覚書の最後には日本人の無宗教と「継承」の失敗が深く関連していることについて書いているが(これは、正式な形では次か、その次の対話篇で書く予定)、このことは社会システムの変化・終わりという観点で、日本の伝統共同体の解体という話だけでなく、仕事の仕方、家族の形成、AIとの向き合い方など様々な分野にも関わってくるものであると強調しておきたい。
〈寺院消滅〉 2018/11/14
一村一寺は江戸時代に促進されたシステム。64Pから説明あり。
ところで、廃寺は無宗教が多い日本ならではのものなの?違うで。アメリカにも多くの廃教会が存在する。んで、それをアメリカに進出した韓国人が買い上げたりしてるんや。ほら、他の地域と比較せな間違うやろ?
「沈黙」という作品への違和感。要するに信仰守って死ねってこと?棄教なんぞまかりならん、と?これを聞いて「国や天皇のために死ね」て戦前の日本が言ってたのを連想したのは俺だけか?一見筋が通ってそうで、ちゃんと考えるとおかしな話やないか(そもそも遠藤周作って戦前の日本の「そういう傾向」を肯定してたっけ?まあ戦後に特攻隊を白眼視する連中を「オメーらも同罪だったろうがボケカス」とばかりに批判した辺りは、単に戦後民主主義の空気に乗っかった残念な人ではないのは理解しているが)。まあキリスト教のために死ぬのも、天皇のために死ぬのも、両方とも肯定すんなら筋が通ってるけどね(俺がそうしようとは思わないが)。ここにも、脱亜入欧的オリエンタリズムが感じられてどうも首を傾げてしまうね。つまり、「欧米のことを理解できないズブズブな日本」というわけだ。
あと、キリスト教の多様性にも目を向けるべきだ。現地に合わせて布教を行う。だから地域性が生まれる。その一つが清朝での典礼問題とイエズス会の対応。いやいや、教皇の命で解散させられてるやん。そう、逆に言えば、それくらい幅があるってことよ。他にもイギリス国教会、コプト教、福音派、ギリシア正教、カタリ派と枚挙に暇がない。
「果たして、日本人はキリスト教をちゃんと理解してたのか?」という人たちは、これをどう考えるのか?もちろん、「~をキリスト教と定義する。そこから外れたものはどれもキリスト教とは呼ばない」という立ち位置はあろう。でも、そういう一本の軸を持っているようには見えない。いつまで西欧とは違う日本(そして他のアジアのことはよく見ておらず、見たとしても、むしろ西欧的視点を自ら内面化してオリエンタリズムを基に評価する)、という明治期以来の偏ったオリエンタリズムに毒されているのか?
パキスタンとインド。前者は「一新教の土壌があった」からイスラームで、後者は「多神教の土壌があった」からヒンドゥー教なのか?そういう歴史的な複雑性を無視して結果から逆算したがるおバカさんたちの言説には、モディさんとかが喜びそうやね~。マフムードが草葉の陰で泣いてるわな。もっと歴史を勉強せい。
こういう視点と研究・検証こそ重要。多くの宗教関連の本は余りに観念的すぎる。社会との繋がりをビビッドに描いてないし、データに基づいた論述でもない。まさに大衆の観念を鏡として写し、かつそれを拡大再生産するだけのもの。あるいは真逆で、内情をスキャンダラスに暴くか(まあ本だとある程度はニーズに応えんと売れないから、という側面は理解できんくもないが)。
あるいは観念的に語るのなら、他国とも比較しつつ徹底的にやれよ。今の語りのほとんどは、外界を知らぬ引きこもりの妄想の域を出ない。それに加えて、社会システムやその変化との関係性が全くのところ等閑視されている。だから、ただの思い付きを膨らませただけの妄言が堂々と垂れ流されるんじゃなあないか。
ともあれ、この本を読むと、キーワードは「継承」だなと改めて思う。ここから『データブック 現代日本人の宗教』の話へ。出稼ぎ、大学。核家族化、
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