水子供養ねえ・・・葬式との関連か、お寺と結びつけられるものであるが、それが一般に行われるようになったのは1970年代以降でかなり新しい現象とされる(たとえば最近の研究では、鈴木由利子「水子供養に見る胎児観の変遷」『国立歴史民俗館研究報告』第205集 2017を参照)。人工妊娠中絶の一般化とそれに対する反発の中で盛り上がってきた行為(という意味ではプロチョイス・プロライフ運動などとの対比も興味深い)であるが、端的に言えば中絶に伴う罪悪感や流産に伴う哀しみ・喪失感を、自己(妊婦)という観点ではグリーフケア、他者(水子)という観点では恐れを背景とした鎮めによって贖おうとする行動と言えるように思う。
このようにその「効果」は合目的的に説明できるのだが、しかし一方で、何かの失敗や不幸、不全感に対して「水子」が持ち出されるケースもいくつか聞いていると、なんとまあ便利なマジックワードではあることだ、といささか呆れるしかない。なるほど人間の事実認識がしばしば不合理なものになりうることは、枚挙に暇がない。特に「死」は世の偶然性を剥き出しにし、かつその先が見えないがゆえに、人を二重三重の不安に陥れるのである(このことは、たとえばサバイバーズ・ギルト[=災害などで身近な人が死んで自分が生き残ったことを、自分の咎のように感じてしまう心理現象]を考えれば思い半ばにすぎる。つまり、理屈をもってその生死を馴致できないがゆえに、自らの生をあたかも不正によって獲得したる物の如くみなし、罪悪感を抱いてしまうのである[少し違う方面からの話だが、「アンチクライスト」という映画を見てみるのもよい]。ただし、賢明な読者諸兄はすでにお気づきのことと思うが、この世界の生死というのは端的に言ってそのようなものである。でなければ、なぜ生まれた地域が違うというだけである者は衣食住が満ち足り、ある者は口にする物さえなく死んでいくというのだろうか?)。
そのような不安に乗じて人の財貨を巻き上げるというのは、私にしてみればどうにも悪徳の栄えであるようにしか思えず、到底容認しがたいものがある。まあもっとも、免罪符といい戒名といい、歴史上宗教教団が人の罪悪感や恐れにつけ込むというケースは枚挙に暇がなく、その意味で殊更これだけを取り上げて批判するのもお門違いではあるのだろうが。
ただねえ、グリーフケアの重要性がなくなったわけじゃないんだよねえ・・・おそらくその要素はそうそうすぐには無くならないし(まあ不老がほぼ実現してAIが世界に普及したらそれもどうかわからんが)、ゆえにそこが社会的に包摂されない限り、水子供養に訪れる人はいなくなることはないだろう。
などと思いながら、歩みを進めるのであった。
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