間違いだらけの日本無宗教論

2018-06-02 12:49:12 | 宗教分析

カブル―=K   ホルム=H

 

K
あー、また死んだわー。いくら生き返るってわかっとってもこればっかりは慣れんな。

 

H
せやな。死ぬときの恐怖とか痛みって別に生き返っても無うなるわけじゃなし。いくら回復するからって何度も骨折したいってやつはいないし、一日体験ででも膵臓がん末期クラスの激痛を味わいたいヤツはおらんやろ。

 

K
そうそう。ほんま連中気楽やで。なんか数値減ったら回復魔法使えばええ、動かんくなったら復活魔法使えばええ思うとる。これちょっとした拷問や。

 

H
ちょっとでなくてまんま拷問やがな。まあでも、そういう世界観ちゅうか死生観が普及しちまったら、そこにある痛みの深刻さってヤツには目が向かんくなるのはわからんでもない。

 

K
「ゲーム的リアリズム」ってヤツやな。ド〇クエとかF〇とか。まあしかし、現実でも不老が成し遂げられたら変わるんと違うか?たとえば、「あいつらアンチエイジングする金ねーから、必死になって健康食品食べて運動に明け暮れとるわ。まじ貧乏人乙www」とか言い始める連中が出てきてもおかしくない。

 

H
そりゃ死生観は変化せざるを得ないし、社会構造も大きく変わる可能性があるよな。たとえばAIで儲ける一部の大企業とその持ち主たちが財力で延々と生きて、衆生はBIとVRで「愉しく」しかし「細々と」生きれはするが、寿命になったら容赦なくガスガス死んでいく、みたいな感じで。死ぬときの痛みは末期治療でゼロにするけん、その代わりアンチエイジングは許さん、みたいな。

 

K
やべえ暴動不可避wでもまあ、社会変化が俺たちの内面を変えるってのはその通りだと思うわ。

 

H
そうそう。てなわけで、ちょっと日本人の無宗教について考えてみましょうと言うわけだ。

 

K
比類なき唐突な導入ってやつだな。

 

H
なにぃ聞こえんなあ!!・・・とか言いつつ前回触れた「スタートライン」を確認すると、今では信仰ありって答える人は3割弱しかいないってことだった。こんな具合にね(引用元は石井研士『データブック 現代日本人の宗教 増補改訂版』新曜社 2007)。

 

 

K
無宗教と思う日本人が多いのは、「自己認識と周囲の状況から何となくそう思われる」のではなく、明確なエビデンスがあるってことやな。

 

H
Exactly(その通りでございます)!ちなみに「今の日本人は自身を無宗教だと思う人間が大半だ」という前提に対し、「いや、そう思い込んでるだけで本当は違うんやで」という反論は、前回メコメコにしたった(笑)ので、今回はその周辺について考えていきまぁす。

 

K
あいあーい。つーかこのグラフを見ると、戦後ずっと同じくらいの数値で推移してるわけじゃなくて、徐々に下がってきてるんだな。

 

H
そうなんよ。ちなみにそこから、先に述べた「今の日本人は自身を無宗教だと思う人間が大半だ」以外にも重要なことが言えるのだけど、何だと思う?

 

K
1950年代までの調査結果だと、「信仰あり」と答えた割合が半分を超えているってことかな。

 

H
Richtig(その通りでございます)!!このことからすれば、時に見かける「日本人は元来無宗教であったのだ」という超歴史的な語りは事実無根ということになる。半ば蛇足気味に言っておくけど、日本人の思う宗教的なるものと、外来のreligionを和訳した「宗教」ではそもそも意味合いが合致してないから、日本人に「あなたの宗教は?」と問うのはあまり意味がない(本当の信仰心をくみ取ることができない)、というような見解もこの数値状況から否定される。なぜなら、少なくとも自分の知る限り、宗教の語義って戦後から今にかけて大きな変化などしていないわけで、言い換えれば同じパースペクティブで答えても戦後間もなくは信仰ありと答えた人が過半数いたわけ。つまり、今日の日本人の大半が無宗教と答えるのは、「語義の問題」ではない、と言える。もちろん、宗教やその組織・教義に対するイメージの変化はオウム事件のことを挙げるまでもなく、考えていかにゃあいけませんがね。

 

K
近代化の時に持ち出される「翻訳問題あるある」ってやつね。無理やり移植したみたいになったから、接ぎ木みたいになって奥底のエートスと齟齬をきたしている、的な。まあ日本人の宗教的帰属意識については、調査の結果から「宗教」という翻訳語が犯人とは言えない件は理解した。しかし、「元来無宗教」ってのはどういうことだい?

 

H
そう発言してる人間にとって細かい中身は違うだろうけど、おおよそ「多神教かつ神仏習合という宗教状況の日本にあっては、特定の宗教に帰属意識を持つということが歴史上そもそもなかったのだ」という見解だね。

 

K
えーと、それは神道と仏教が合体した習合的宗教を信じているから、特定の宗教に対する帰属意識はない、とかそういうやつ??

 

H
まあ大よそそんなもんじゃん?

 

K
うーん、それってさあ、神祇不拝の浄土真宗の広がりとか、一神教たるキリスト教が急速に広がったことはどう説明するんだろうね?浄土真宗は一向一揆、キリスト教は島原の乱という形で大規模な反乱まで起こったわけじゃん?帰属意識という言葉を一つの宗教への(強烈な)コミットという風に置き換えると、先の見解と明らかに矛盾している。それらを例外事項として立論してるんなら、いささか牽強付会ってもんだぜ。

 

H
まあジョナサン=ハイト風に言えば「直感的」な判断なんだろうよ。つまり今の自分(たち)の「ああそう言えば自分は帰属意識がねーなー」という実感に基づいた結論から、都合のいい要素をパッチワーク的に組み合わせて逆算的に論を組み立てていくっていうね。ヒトラーのユダヤ人=共産主義者ってレッテルもそうだし、逆にユダヤ人=資本主義の走狗って見解も同根だ。前者は、ロスチャイルドやロックフェラーといった世界的に有名な大財閥を見ていないし、後者はマルクスやトロツキー、ベルンシュタイン、あるいはナロードニキのメンバーといった人々に目を向けていない。要するに、どちらも「見たいものしか見てない」ってことさ。

 

K
まあよくある話だな。俺は今言ったような一部の歴史的事例からでさえ「元来無宗教」って措定は無茶だと思うけど、念のため調査の中身をもう少し教えてほしいぜよ。たとえば、「信仰あり」が多数ってのと、「特定の宗教には帰属意識がない」ってのは言葉的には一応両立しうるからね。

 

H
ああ、それは大事な視点だぬ。こんなんなっとります。引用元は前掲書の末尾にある「世論調査資料」。全部だと煩雑になるので、とりあえず時事通信社・永末世論調査書・読売新聞社を掲載してみました。

 

K
なるほど、信仰があるってだけでなく、具体的に宗教名も答えてるのね。つか仏教の割合多いなあ・・・

 

H
その通り。というわけで、「日本人は歴史的に特定の宗教に対する帰属意識がない」という見解も成り立たないってのはOK?

 

K
まあそう考えざるをえんわな。ただ、ちょっと話を戻してもいいかい?最初に出てきたグラフでさ、統計数理研究所の数値が1950年代後半にもかかわらず、35%程度だったやんか。しかもその後数値がほとんど変化してない。これはどう考えるの?てかまずその調査内容ってどんな感じだったわけ??

 

H
調査についての詳細は以下の通り。


それを踏まえた上で言うと、1940年代と1950年代については時事通信社・永末世論調査書・読売新聞社・統計数理研究所の4つのデータがあるわけだが、前にも提示したように、そのうち最初の3つは過半数が信仰あり=無宗教ではないって答えてる。しかもそれらの方が1946年~1952年で統計数理研究所の1958年より5年以上古い。そして読売新聞社の調査だと1952年の後の1965年のデータでは信仰あり56.0%、1969年では35.8%となっている。これらのデータからすると、戦後間もなくの1940年代は信仰あり≠無宗教(と自己認識)の割合は過半数を超えていたが、その割合が急速に減少していった、という事態が起こっていたと考えるのが自然だろう。厳密に言うなら、その蓋然性が極めて高いってところだな。その状況を軽視して、統計数理研究所の数値にのみ特に注目するのなら、それは「今の日本人は無宗教と自分を認識する人が多数なんだから、前もそうだったんじゃないか・・・?」という確証バイアスが働いてるんじゃないですかね?と言いたい。さっきも書いたけど、「実感に基づいた結論から、都合のいい要素をパッチワーク的に組み合わせて逆算的に論を組み立てていく」・「見たいものしか見ない」ってやつだな。まあこういう思考の流れは専業主婦とか終身雇用、日本人の時間感覚についても言えるわな。近代以降歴史的に構築されたり変化してきたにすぎないものを、非常に長期間続いた「日本の伝統」と勘違いするっていうね。

 

K
まあ犯罪についても同じことが言えるわな。「凶悪犯罪が報道を賑わせている、不安だ」→「(不安に思うということは)こんなはずじゃなかった」→「違和感があるということは今の日本はおかしい」→「昔の日本は正しかった」という発想。ここまで思考の流れを具体化してる人は少ないと思うけど、こうして「日本的な要素が減った結果日本では犯罪が増えました」というトンデモ論ができ上がる。そんなもん、『戦前の少年犯罪』でも言われてるようにちょっと昔の新聞読めばわかるレベルの話なのにね。それはともかくとして、読売新聞の1965年から1969年って短期間で数値下がり過ぎじゃね?これはこれで気になるんだけど。この調査大丈夫なん?

 

H
カブル―目のつけどころ過ぎ。一つ考えられるのは、1952年と1965年は選挙人名簿からの無作為抽出法を用いているのに対し、1969年のは住民票を元に15歳~79歳からの層化多段無作為抽出法で選んでいることかな。基本的に年齢が高いほど信仰を持っている割合が高いので、信仰心を持つ割合がより低い20歳未満も含んでいる1969年についてはその影響で数値が実体より低めに出ている可能性は考えられる。

 

K
どのくらい違うわけ?

 

H
こげな感じ。引用元は前掲書だす。

 

 

K
1969年ので言うと、20代が17.4%で60代が60.8%か。45%近く違うんやな・・・

 

H
そういうことやな。まあ10代の割合がどれくらいいたかわからんのであくまで推測の域を出ないっちゅーのはあるがな。ちなみにこの「年齢が上がると、信仰ありと答える割合が増える」っていう傾向からすれば、全体の人口に占める高齢者(65歳以上)の割合が増え続ける1955年以降ってのは信仰ありの割合も全体として増え続けなければおかしいんだが、それが横ばいないし微減傾向であるってことにも注意すべきやな。ともあれ、もう一度繰り返しておくと、複数の調査を突き合わせて見る限り、統計数理研究所の数値のみに注目して「やはり日本人は自分を無宗教だと認識する割合が過半数というのが歴史的にずっと続いてきたのではないか?」とする考えは結論から逆算していると疑ってしまうほどに偏っていて、どう控えめに言っても重大な疑義が差しはさまれる以上、その見解を支持することはできないんじゃ。

 

K
長かった・・・ 

 

H
まあ日本人と無宗教というテーマは問いの立て方で半分その有効性は決まるからね。どうしても前提をきちんと固めないわけにはいかんのさ。さて、以上のことから、日本人とはそもそも無宗教である、という見解は支持し得ないという結論が出た。そこで次回は、より具体的な領域に踏み込んで、戦後に無宗教と答える人間が増えていった要因について考えてみることにしませう。キーワードは「流動性」と「包摂」。無宗教の原因としてしばしば取り沙汰される「アメリカ的物質至上主義」を元に、極めて宗教的な国家アメリカと比較しながら考えていくことにしまっしょい。

 

K
もういっそAIに任せてしまいてーわ(゚∀゚)アヒャ

 

H
まあ寄り道しながらの探求ってのも人間ってヤツの醍醐味ですけに(゚∀゚)アヒャ

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