このGWを活かして最近書けてなかったことを書くぞい!と意気込んでおりましたが・・・ダメでちた😇
手短に言うと、この頃は理論というか、理屈っぽい話ばかりになってしまい、感情とか感覚に関する話題を掘り下げて書けていなかった。こういう状態において、例えば「弱者を救済することは無敵の人を生み出しにくくするという点で効果がある。そのことを理解せずに自己責任論ばかり唱えているのは社会性のない無能のすることだ」といった主張をすると、単に「弱者=危険人物予備軍とみなし、その暴発をいかにコントロールするか」のように、大変ドライなトーンになってしまう(「社会に都合よくコントロール可能なものに押し込める」という、単なるリバタリアン・パターナリズムの話に落ち着いてしまう)。
そういう文脈で「人間は完全情報が得られないので、合理的・論理的に誤った判断をするものだよ」とか、「いつでも理性が十全に発揮できるという考えの方が現実離れしているよ」といった話をしても、根本的に大事な点が欠落して伝わってしまうのは問題だと思う(この例として、「生きる意味はない」なども入る。これは一見極めてシニカルな認識に思えるかもしれないが、「意味に縛られないで生きようぜ」という風に解放の契機にもなるのである)。
てなわけで、そういうメンタルや実存のような方面を掘り下げる機会を作りたかったのだが、朝井リョウの『正欲』で掴みかけたような感覚を吟味・言語化する時間もないままGW最終日に到ると。ちなみに『正欲』の話も書けるかわからんので一つだけ言っておくと、作品で示されている重要なテーマは、「性的オリエンテーションの抜きがたい固有性を踏まえた、承認の問題や社会との共生」である(「多様性の肯定」というお題目への批判的眼差し、私的領域と公的領域を截然と分けることの困難さなども取り扱われている)。この前提を説明しないと、何度か書いている「オールレンジグリーン」みたいな本来リベラルアイロニズムを意図した話も、単に享楽主義者の戯言の域を出ないだろう(アイデンティティとして苦しんでいる人は、無理に他者へ理解を求めず、ただ居場所を確保することはしっかりしようという断念、そして特に性的オリエンテーションが葛藤の元になっていない人は、既知の領域を広げることで一種の免疫化を目指す、という意図)😅
真面目な話、こういうのを真剣に考え始めると周囲と時間感覚がどんどん乖離していくんで、感覚を戻すことに無茶苦茶時間がかかるんよね(感情・感覚に言葉を与えること、そして既存の言葉に落とし込むのが難しい場合それをどう類比や詩的言語で説明するかみたいなんは本当に難しい)。その点、論理的な話は基本データや決まった用語を元に積み上げたり修正するだけなんで、誤解を恐れずに言えば仕事をしてるのと大して変わらんから、日常生活をしているとどうしてもこっち優先になっちまうんだよなあ。
とまあ結局あれこれ書いてみたが、こういう方面を一度ちゃんと掘り下げる時間を作らねば、と書いた上でこの稿を終えたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます