という言葉で「どうせ~だろ」などと怨嗟を繰り返す態度とニーチェ的なそれを一緒くたにするのはやめた方がよい。というのも、前者は願望が満たされない僻みにすぎないが(でなければ、どうして自己肯定のジャンクを病的に必要とするのか!)、後者は、初期ギリシャの称揚から明らかなように、意味付けせずにいられぬ(=端的な事実を認めたがらない)精神性をこそ批判しているからだ。要するに、表象は同じに見えても両者の由来は真逆なのだ。これを同一視すれば、ニヒリズムの体裁を借りた諦念・絶望の根源は覆い隠され、それを解消する手立てをも見失うことになるだろう。
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