日本人の無宗教が言及される時、必ずと言っていいほど持ち出されるのはそのアニミズム的風土や多神教的世界理解である。何度となく書いているので詳しくは繰り返さないが、もし仮にその見解が正しいのであれば、古代オリエントと呼ばれる時代は多神教であった地域で今はイスラーム=一神教が支配的になっていること、 同じく多神教であった古代ローマ帝国やギリシア、あるいはゲルマン人やノルマン人たちの大半がキリスト教になったこと、あるいはヨーロッパ人が来る前は多神教ではなかったアメリカ大陸やフィリピンといった地域が一神教になったことなどをどう説明がつけられるのかぜひ聞いてみたいところである(ここで賢明な読者であれば、たとえば他地域と日本の「植民地化」という差異を見出すことだろう。そしてそこから、たとえばGHQ支配下において、最初はマッカーサーにキリスト教を広める意思があったにもかかわらず、天皇を軸にしたコントロール[=マッカーサーと天皇が並んだ写真!]を志向したがゆえに何もしなかった、といういわゆる「不作為という作為」を知り、今日が自然状態=日本人の心性による自然の産物などというナイーブな思い込みは端的に言って誤りであると認識するきっかけになるのではないだろうか)。また、神道と似て多神教で開祖も聖典もないヒンドゥー教の生まれたインドにおいて、宗教的帰属意識がない=無宗教の人間が多数派であるとはついぞ聞いたことがないのもなぜなのか、ぜひ説明していただきたいところである。
何が言いたいかというと、結果から逆算してそれらしい要素をパッチワークのようにつなぎ合わせてみるような行為は、もちろん思考の始まりとしては致し方ないとしても、それに固執すれば視野狭窄とレッテル張りの強化にしかつながらないということである。こう考えてみた時に、日本の無宗教を考えるにつけ、一体インドがどのような歴史を辿ったのか、今日どのような状況にあるのかを見てみるのは非常に実りのある行動だろう。
前置きが長くなったが、今回「ナショナリズムと宗教を問い直す」という動画を転載した理由は、そのような事柄を考える契機になると考えたからである。正直なところを言えば、この議題と対談の内容からすると、いささか内在的すぎて物足りない感があったことは否めない。その最も大きな理由は、ベラーの宗教社会学的視点に触れているのに、フロムの「自由からの逃走」やパーソンズのアノミー理論、あるいはそれに絡むデュルケームの「自殺論」(自殺が起きやすいのは、金持ちが急に貧乏になる時ではなく、むしろ貧乏人が急に金持ちになった時であるetc...)には全く言及していないからである(ここからは、「紐帯のゆるみ→紐帯の希求」という動きや相対的剥奪感などが想起されるわけだが、すると当然急速なグローバル化の危険性=スティグリッツなどの警告や、実際のトランプ現象・ブレグジット・FNの躍進・ウィルダースの自由党の躍進へとつながることは言うまでもない)。もちろん、お二人の来歴から話を立ち上げるという、以前の「右翼思想のエートスを知る」で紹介した動画のような構成になっているがゆえに、社会学・精神分析の視点は言及されなかっのだと言ってしまえばそれまでだが、それが原因で外在的・マクロ的視点がぼやけて、ややメンタリティに寄り過ぎた語りになっているのはいささかもったいないと思った次第だ。
とはいうものの、様々興味深い視点が提示されていることはいくら強調してもしすぎることはない。たとえば「スピリチュアリズムとナショナリズムの親和性」は、右翼の主意主義という視点ともつながるように思われる(これに関して、私は日本の自然礼賛の流れでいわゆる農本主義の話も出てくるのかと思ったが、そこに全く言及がなかったのはいささか意外だった。これは二・二六事件などの思想的背景ともなったものであるがゆえに、テロリズム的印象を与えるその用語に触れるのを嫌ったのであろうか?ちなみに日本のナショナリズムを考える時、その文物が実に「借り物だらけ」であることを念頭に置く必要がある。それゆえ、日本とは何か、あるいは日本民族とは何かという交換不可能なアイデンティティを打ち立てるにあたってその独自性を熟考した時、たとえば三島であれ柳田であれ、天皇制とともにその自然、つまり四季や里山が注目される・・・という思考手順が取られやすいのであり、農本主義もそのような文脈で理解する必要があるように思われる)。あるいはトクヴィルがアメリカに渡った際の問題意識(革命で人民が主権を獲得したはずのフランスでなぜまた帝政を人々は選んだのか)については、ナチスが台頭した(国家統一が遅れたがゆえに権威主義的性質が強いとみなされてもいる)ドイツだけでなく、早く民主主義が根付いたかのような印象を持たれているフランスでさえ、「自由からの逃走」が起こっていたということ=その現象の一般性を視聴者に示唆するという点で興味深い(前に「毒書会始まる」で触れた「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」なども想起されたい)。また、最後に原のコメントであった「近代に作られた神道」という話も非常に重要なものであると感じた。というのも、戦国時代の一向宗・キリスト教の広がり、近代天皇制における天皇への帰依などからすれば、冒頭で述べたように「日本人は多神教的メンタリティを持つがゆえに一神教的なものを拒絶する」という評価が、少なくとも超歴史的に可能であるか私は甚だ疑問であるからだ。たとえば「勤勉な日本人」などという評価が一種の虚構にすぎない(少なくとも歴史を超えた日本人の一般的性質などとは措定できない)ことは近代化以前の外国人日本評からも明らかだし、また応仁の乱の前後で日本は全く変わってしまったと述べた宮崎市定のような歴史家もいるわけだが、日本人の宗教意識に関しても、下克上や西欧化のような価値観流動化(アノミーも想起されたい)の中では強い紐帯として一神教的なるものに帰依しうるといったダイナミズムを考慮に入れて考えていくべきなのではないか?そのような考証の契機として、歴史構築主義的な視点は必要不可欠であると思うので、大変興味深いと思った次第である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます