日本人の宗教的帰属意識について:なぜそれは思想史としてのみ記述されがちなのか

2023-05-19 11:40:15 | 宗教分析

日本人の大半(8割)が自身を無宗教と自認することについて、宗教儀礼の遂行に着目して実は~教徒であるなどと外的に定義しても意味はなく、むしろ「なぜゆえに宗教儀礼と宗教的帰属意識の断絶が生じたのか」を分析しなければ話は先に進まない、というのは何度も述べてきたとおりである(ちなみに、「日本人は元々特定宗教に帰属意識を持たない」・「宗教というという言葉が外来のものだから日本人の宗教的帰属意識を適切に掬い上げられていない」といった言説は、少なくとも1946年~1950年の時事通信社の調査や、1952年の読売新聞の調査などから実証的に否定される。ここからわかるのは、①1952年時点でもかろうじて日本人の過半数は自身を何らかの宗教に帰属している意識を持っていたこと、②帰属意識を持たない人の中でも4/5近くが「家の宗教」はあると答えていたこと、の2点である。このような前提に立つと、戦後日本における都市化・核家族化などによる伝統共同体=「家」からの遊離が宗教的帰属意識の剥落に影響を与えた可能性は極めて高いと考えられる)

 

なお、この記事で少し書いてみたいのは、日本人の無宗教に関する言説がなぜ思想史ばかりに偏っていて、コミュニティという観点(宗教社会学の眼差し)が欠落しているのかについての考察である。

 

さて、日本における宗教の歴史を扱っている市販の本については、次のような傾向を持っているものが大半である。すなわち、仏教や神道といった伝統宗教については、もっぱらその思想の歴史が扱われており、そこでは鎮護国家や神仏習合、鎌倉新仏教の台頭、キリスト教の伝播あたりまで語られて終わっていたり、あってもせいぜい明治以降で神道が特別な地位を占めた、ぐらいの話しかされない(ここには、近世仏教を堕落として批判した辻善之助的な評価の影響が今もなお残っているのかもしれない)。確かに、神仏分離と廃仏毀釈による地域共同体での信仰のあり方の変化を実態的に追った安丸良夫『神々の明治維新』、あるいは江戸幕府における寺檀制度の成立やキリスト教弾圧の仕組み(政府ー個人という二項関係だけでなく、コミュニティからの排除という側面にスポットを当てている)を扱った圭室文雄『葬式と檀家』のような著作も存在はするが、例外的という印象である。

 

その一方で、天理教や大本、創価学会や立正佼成会などの新宗教については、その成り立ちや思想内容が語られるだけでなく、組織としてのあり方に(しばしばスキャンダラスなものを添えて)スポットが当てられているようだ(組織としての問題点はもちろん指摘すべきであるが、伝統宗教と比較した時の力点の差異に留意されたい)。

 

私が思うに、その背景はこういうことである。つまり、(信仰の調査からもわかるように)伝統宗教そのものに帰属意識は持っていないため、コミュニティとしての実態や特徴に興味はない(正確に言うと、檀家などについて中途半端には知っている)。ゆえに、一般の人々が求めるのは、知的好奇心を満たすための素材=「哲学化された仏教」であったり、あるいは生活に役立つ=「道徳化された仏教」である、と。言い換えれば、このような市場の傾向を反映したものが市販本の著述の偏りに表れていると思われる(この区分けが理解しづらいなら、いささか図式的にはなるが、例えば真宗の『教行信証』的なるものを前者、『歎異抄』的なるものを後者と表現すれば伝わりやすいだろうか)。

 

加えて言えば、これは必ずしも自然発生的な現象ではないと私は考える。その理由は以下の通りだ。明治以降の近代化の中で、仏教はキリスト教や国家神道に対抗するために、近世的な体制から脱却することを志向した。その流れの中で、井上円了や清沢満之といった人々による仏教思想の研究を通じ、仏教教団の強化というよりもむしろ、仏教思想の理論化、すなわち仏教の哲学化が生じた(その他、禅についての著作で特に有名な鈴木大拙などを想起)。

 

それと並行して、難解な思想や精緻さを求める訳ではない一般の人々に対しては、わかりやすく教えを広めるために元々あった説法が活用されたが、これがラジオの普及を通じ高嶋米峰や暁烏敏など著名な人物の話が遠隔地でも聞けるようになり、これが世俗化・大衆化として仏教の道徳化を促したと考えられる(ラジオは場所の共有を必要としないがゆえに、そこで語られる内容が有り難いと感じられたとしても、これまでの説法のようには教団やコミュニティへの帰属意識に直結しづらい、という点に注意を喚起したい。なお、この辺りは『近代仏教スタディーズ』の「ラジオ説教の時代」なども参照)。

 

そしてこのような精神性をわかりやすく受け継いだ人物の一人が、パナソニックの生みの親である松下幸之助で、彼がなした言説の中にはしばしば宗教的世界観と経営理念が一体化したかのようなものが見られたことを想起したい(坂本慎一『戦前のラジオ放送と松下幸之助 宗教系ラジオ知識人と日本の実業思想を繋ぐもの』などを参照)。ついでに言ってしまえば、何度か取り上げている日本企業の共同体的側面、即ち企業墓に代表されるような企業共同体とその包摂的機能についても思いを致しておく必要がありそうだ(これは先のラジオ説法と一本の線で繋がっているとまで言っているのではなく、そのような包摂機能を持った擬似共同体が伝統共同体を離れて根無し草的になった人々に拠り所を用意し、そこでは教団や地域共同体がかつて担っていた宗教的機能を一部代替することさえあった、と表現するにとどめておく)。

 

さて一方、新宗教についてはどうか。その組織や、そこに所属する人々は、「マジョリティ=無宗教の我々」とは異なる存在である。そこから、言葉選ばず言ってしまえば、「あの変な奴ら」がどんな発想をしているのか?どんな組織を作っているのか?といったことをイロモノ的に知りたいという意識が働いているものと考えられる。よって新宗教に関しては、その思想史的な面よりむしろ、組織の実態などがスキャンダラスな要素をもって語られることにニーズがあり、それに応える形で著作がものされている、と考えられる(繰り返すが、実際に生じている問題を、それとして指摘すること自体はもちろん重要である。ただ、例えば神社本庁でも分裂やら脱退やらで色々問題を抱えているのに、それらにフォーカスした著作は私の限り少なく、翻って新宗教はそういうテイストのものが多い印象は否めない)。

 

以上、伝統宗教と新宗教それぞれについて、市販されている本の偏りとその要因について推論を書いてみた。これがどの程度当たっているのかは本来書籍の具体的な刊行数やら報道のあり方なども含め具体的に検証が必要だが、これがある程度的を射ているのだとすれば、このような偏りが原因で、日本人の無宗教を考えるにあたっては極めて重要な、「伝統宗教のコミュニティとしての機能やその変化、あるいはそれとの人々の関わり方」という視点は放置されていると言えるだろう(宗教的帰属意識は今のところ強化される見通しはないので、このような傾向が今後も続くと予想される。というのも、今日の宗教的建築物やそこでの儀礼は、せいぜい「パワースポット」などの形でライトに、インスタントに消費されるだけで、それは継続的な宗教的帰属意識の構築に繋がるようには見えないからだ)。

 

逆に言えば、日本人の宗教的帰属意識とその変化について有意な分析を積み重ねようと思うのなら、宗教と共同体の関係性、共同体と個人の関係性といった視点を強く意識した考察を進めることが必要だろう。そしてその一例として、江戸時代の潜伏キリシタンのコミュニティへの重層的帰属意識や生存戦略(キリシタンとして信仰を守りつつも、地域共同体の宗教的行事は否定せずに加わる)を史料を軸に論述した大橋幸泰『潜伏キリシタン』のような著作を挙げつつ、この稿を終えることとしたい。


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