日本人の「信徒」に関する基準

2023-06-01 11:50:00 | 宗教分析
先日togetterのトレンドの10位に「日本人が自分を無宗教だと思うのは、信徒の基準が極端に高いからではないか?」という趣旨のものがあり、ちょっとおもろいなと思った。なぜかというと、色々間違っている可能性が高いが一部は合っており、これは日本宗教論を作り出している一つの典型例だと感じたからだ。以下、その理由を説明していく。
 
 
まず、「合っている」の部分。
例えば友人とか知り合いが、誰それを「~教徒」だと説明する際に、「でもこないだ合コンしてたよ」とか「別にそんなお堅い人じゃない世」といった注釈をつける例を何度か経験してきた。これは深掘りすると、「~教徒」→「教えとかに厳格な人?」→「いやそういうわけではないよと但し書き」という意識の流れであり、この「教えとかを厳格に守っているはず」の部分に注目すれば、ある程度頷ける解釈ではある、というわけだ(まあ調査などで数値化されたものを見たわけではないけど)。
 
 
じゃあ合ってるじゃんと思われるかもしれないが、史料やデータを基に見ると、それが間違っている(正確に言うと歴史的変化を考慮に入れていない)ことがわかる。
 
 
 
古代の加持祈祷や中世の起請文とかを例に挙げてもあまりピンと来ないと思うので、あえて新しい時代から反証を挙げると、何度も引用している『データブック 現代日本人の宗教』の結果を確認してみよう(P23より引用)。
 
 
 



 
ここからわかるのは、
1:戦後間もなくの日本人の過半は無宗教を自認していなかった
2:個人の宗教と家の宗教の間に大きな落差がある
という2点だろう。
 
 
これを元にすると、「日本人=無宗教」とか、「日本人=特定宗派に帰属意識を持たない」とか、「そもそも宗教という概念が日本における宗教のあり方に合わない=日本人の宗教意識を適切に反映できない結果無宗教という認識になる」などのような言説は、おしなべて眉に唾を付けて聞くべきものになるわけだが、しかし「信徒の基準が高いから」という推論の反論にはなっていないと思われるかもしれない。
 
 
この点については、上の結果に合わせて、「葬式仏教」という言葉が非常に長い歴史を持っていることが重要だろう。直葬やら樹木葬が増えつつある今日では、もはやこれすら死語になりつつあるように思うが、仏教に深く帰依しなくても、葬式の際はみな仏式で行い墓を建てることを揶揄したこの言葉は、概ね江戸時代から存在していた(もちろん、墓の扱いやら土葬→火葬の変化など、内実は様々変わってはいるのだが)。
 
 
江戸時代=近世と言えば、キリスト教排斥の目的もあって、寺檀制度・宗門人別改帳が全国化し、「厳格な信徒」云々どころか、猫も杓子も仏教徒として自動登録された時代である(その枠組みに入らない人々は「無宿」と呼ばれ、無戸籍のアウトローとして生きるしか術がなかった)。
 
 
そのような江戸時代における仏教徒としての自動登録システムは250年以上続き、宗教的帰属意識の形式化が緩やかに進んでいったと考えられる。なお、明治~昭和戦前は数値的データに乏しく、定量的に実態を示すのは難しいが、それでも1940年の徴兵検査時に行われた「諸君はどういう気持ちで神仏を拝みますか」の選択肢の答えを見ると、「皇国の隆昌を祈るため」が48.3%、「神仏の御恩に感謝するため」が26.8%で圧倒的に高い(前掲書の世論調査資料(2)より)。これは徴兵検査という環境の影響も考慮すべきではあるが、国家という大きなものの利益のため≒家・共同体の宗教・儀礼という側面と、個人レベルにおいては現世利益的志向が観察されることは指摘できるだろう。
 
 
 



 
 
以上のような状況を踏まえ共同体(システム)としての宗教と個人的な宗教的帰属意識の形式化・希薄化を考えると、戦後の調査における「個人の宗教」と「家の宗教」の大きな乖離はまさにこれを表象していると言え、また「葬式仏教」といった言葉はその端的な表現と言えるのではないだろうか(信仰心は薄くてもorなくても、慣習としての同調圧力もあり、それを実践する。なお、このような状況であるがゆえに、戦後の都市化・核家族化・高学歴化といった事情で伝統共同体との距離が遠くなると、宗教的帰属意識は自然と希釈化・消失していったものと考えられる)。
 
 
ただ、逆に言えば、そのような状況であってもなお、日本人の大半は自身を何らかの宗教に属していると戦後であっても答えているわけである。こういった状況を踏まえると、「厳格な基準」云々は、一体いつの話をしているのか?と疑問に思えてくるわけだ。
 
 
ここまでが反証部分である。
しかしそれなら、前述のように、現代においては「厳格な基準」云々の話がある程度妥当するように思える点はどのように考えるべきか?ここからはあくまで仮説だが、おそらくこういう事情ではないか。
 
 
1995年のオウム事件もあって、今日では日本人の80%弱が自身を無宗教と認識するようになっている。つまり、何らかの宗教の信徒であることは確実にマイノリティである。よって、「無宗教を自認する人が大半という『世間』が構成された状況が先にあり、結果としてそこから外れる人間にはよほどの何かがあるのだと考えるようになった」と。
 
 
すなわち、私たちの多くは、信徒の基準が厳格だから、その基準に未達の自分たちを無宗教と自認するのではない。宗教的帰属意識が欠落した状況だから(それらしい言い方をすれば、周囲の宗教儀礼が「空気」のようなものだから)、自分たち≒「世間」とは違う世界に属する人たちは、よほど強い何かがあると考える、という思考の経過を辿り、結果として信徒の基準が厳格になっているものと考えられる(この「世間」との乖離問題は、別の記事でも述べた新宗教・同信者とその扱われ方を想起すると、よりわかりやすいのではないだろうか)。
 
 
この見方が正しいとすれば、今回話題になった見解の問題点は、「話を過剰に一般化しすぎている」・「順序を間違えている」ということにある(「日本人」を「今の日本人」に限定すれば、それなりに妥当と言えるので。こういう「今だけ通用するものを超歴史的に解釈し、過去に都合のよい材料を求めながらそれを強化・正当化していく」という流れも『作られた伝統』よろしくしばしば見られるケースである)。
 
 
もう少し構造化するとこういうことだ。今生きている自分の肌感覚・直感としてはある程度正しく、またそれが一定の共通理解を得られるために、検証抜きで言説だけ広まるのだ、と(むしろ面倒な検証がないことは、言説の流布にはプラスに作用さえする)。
 
 
これは共同幻想論や陰謀論の隆盛、あるいは今毒書会で扱っているマンハイムの『イデオロギーとユートピア』にも通じる問題系であり、それゆえ大変興味深いと感じたので取り上げた次第である。
 
 
以上。

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