ホロライブの儒烏風亭らでんはサブカルチャーとハイカルチャーの橋渡しをする逸材だ、という話は何度かしてきたが、今回はその最後の覚書となる。単なる記号的理解を超えて、ある種の体系を考えること、あるいは越境的に考えるきっかけをハードルが高くならない形で提供してくれる存在は極めて重要、という話。
【覚書4】
北斎と印象派については有名。富士講の存在。富士登山できない人へのグッズ販売的な側面。お伊勢参りと巡礼ツーリズム。ベルリアンブルーの件。では、高麗青磁やターキッシュブルーの紹介も是非!ヨーロッパの理解、近代日本の理解→比較と分析。ここにアジアも含めることで、視野狭窄な「脱亜入欧的オリエンタリズム」などからの脱却。
現代アート。何が「芸術」か?デュシャン。萌え絵と村上隆。「神は死んだ」。神・宗教という名の真理=絶対的規範は失われ、それぞれがそれぞれの生き方を見つけなければならない世界(カントのアンチノミー)。実存主義が登場する必然性。あるいはナショナリズムや共産主義といった新たな宗教の代替物となるイデオロギーの登場(マンハイム『イデオロギーとユートピア』)。
写真と絵画の件は別の動画で触れていたが、100年後にベンヤミンが書いた「複製技術時代の芸術」を想起(デュシャンの「泉」については現代アートの説明でも語っているが、その他でもアンディ・ウォーフォルやヨーゼフ・ボイスなどが連想される)。そして今日では、AI画像の急速な発展の中で、我々はなぜ表現をするのかが問われている。美術の授業の内容について、「なぜこの技術があるのに、プロでもない我々は絵を描くのか、表現をするのか?」という根源的な問い。それなら、Stable~の使い方を学んだ方がよくね?何で絵を書かされなければならんの?抽象的で迂遠と思われていた問いが、本質的な問題として問い直されている。この問いにどれだけ真剣に向き合っているのか、どれだけの教師が答えられるのか?システムの「自動機械」は教師か?生徒か?それとも両方か?
否定された印象派。まあ新しいもんはうさん臭く見られがちだわな。例えば新古典主義のアングルとロマン主義のドラクロワの不仲。古代ギリシアに立ち返り普遍性・写実性を重視する前者が、感情の固有性を重視し、かつその奔流をどう表出するか(後のExpressionism)に重きを置いた後者と対立するのは当然(現実模写を重視するなら、ドラクロワが七月革命をモチーフに「民衆を導く自由の女神」で女神を描いたことなど噴飯物だろう)。
旧来の権威と新興層の対立はどこにでもある話。ただ、今日ではその硬直化が即、衰退を招きかねない難しい状況。ジャニーズが保守的でストリーミングへの進出(=世界進出)が遅れた事例。あるいは出版業界と電子化。FAX執着勢(笑)とか。古い仕組みもそうだが、「業界内でどうにかしようとする」発想はオワコン。広げないと衰退の記事。どうやって他の世界にリーチするか?表現の場の設定。
無限にコンテンツが溢れている。興味を持つきっかけさえあれば、アクセスは容易になっている。場所と人。分野と分野。例えば美術の写生の授業で光の話が出てくる。フェルマーの原理、ヤングの干渉実験。さらに波動とか良識理学とか物理への興味へ。あるいは、認知科学、美学、心理学といった人間という受容体への興味・分析へ。
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