なるほどイーガンや認知科学については、「そんなもん知らねーよ」という反応も理解できる。しかし、オウム事件について同じことを言うのはどうだろうか?教団の内実が明らかになる中で、薬物で宗教体験が引き起こされていたことが大々的に報道されていた。つまりは、そのような(おそらく最も)神秘的と見なされているものさえ、システム化された(システム化可能な)ものとして超越のベールをはぎ取られ、引きずりおろされたのではなかったか(イーガンで言えば「祈りの海」)。なのにどうして、今もなお「真の自己」、「精神」といったもの、あるいは深遠なる何か(魂?)が人間には備わっていると無邪気に信じられるのか?おそらく、オウムの事件は見ている者たちにとって、それは「風景の狂気」でしかなかったのだろう。ゆえに、自らの思考の枠組みを問いかけることには決してならなかったわけだ。こうして、宗教を嫌いながら名前の由来などについて平気で蒙昧な意見を述べたり、神の罰というものを訝しみながらオカルトについて合理的な解釈が当たり前に通じると考えるような気違いじみた行為が横行することになる。
個別の狂信があると思うだけで、そこに到る必然性であるとか、自分たちが日常やっている思考との類似性に気付かないし、気づこうともしない。
個別の狂信があると思うだけで、そこに到る必然性であるとか、自分たちが日常やっている思考との類似性に気付かないし、気づこうともしない。
筆者さんの仰ることに概ねは同意できます。科学によって我々の身体や精神が実に合理的に解釈可能な領域が増していってることは、碩学の身でない私にとっても理解できることです。
ただそうは言っても生命の根本的なところはやっぱり非合理に違いありません(もっとも、この記事において筆者さんは人間の内在の部分にのみ着目しているのだとしたら、以下述べることがかなり的外れになって申し訳ないのですが)。「AIと生命の差」を考えるとどうしてもそういう結論になってしまうのです。
「なぜ私たちは生きているのか」――この問いかけに対して、私は「生きる意味はない」と答えます。いえ、厳密に言えば、悪魔の証明的に「生きる理由の不存在を証明できていないだけではないか」とツッコまれそうですが、それでも生命の存在意義が確認されていない以上、「生きる意味があるに違いない」ということを前提にするには無理があります。なので、悪魔の証明による批判を加味しても、「現状生命には生きる意味が(少なくとも人類には)認識できていない」と仮定をするのは、決して飛躍のあることではないと思います。
AIは非常に計算速度が速く、その上自立学習できる存在。シンギュラリティの先にあるものがどんなものか、私には漠ともイメージができません。
ただ、AIがどんなに進化しても「合理性の塊」のままであることは変わらないでしょう。彼らが光なり音なり赤外線なりで認識・分類した世界には、決して超常的なものが入り込む余地がありません。
実は、AIはあまりに合理的であるからこそ、「AIに自我が芽生えて、人間に反乱を起こし征服する」なんてターミネーター的な世界観はあり得なくなります(人間が命令する限りにおいて殺人ロボットは可能でしょうけど)。なぜなら、彼らが何もかもを合理的に解釈するが故に、「生命が、生きて、繁殖して、死ぬ」という非合理なプロセスを実行できないからです。
だって、人間に限ったって、平均八〇年ぐらい生きて、その間に食ったり動いたり休んだりしていることに何の意味がありますでしょうか? なんで子供を産む必要があるのでしょう。数多の生命が子々孫々を繋いで繋いで、いったい何の意義があるでしょうか。
延々と繋げば宇宙に何か変化があるでしょうか? 仮にあったとしてどうなんでしょう、意味はありますか? いえ、誰にとって、何の意味があればよいのでしょう。……答えがない? それじゃあ結局、何もかもすべてが無駄じゃないか。
というニヒリズムな感じになってしまうので、AIあるいはAI搭載のロボットは、自己保存の欲求や繁殖の欲求が芽生えることがなくて、だから自我を持って人間を支配する、なんてことはあり得ないのです。
「生きることに何の意義がある? なぜ生命体は繁殖をするのか?」――この生命の根源的な問いが合理的な形で氷解できない限り、AIは自分よりもはるかにバカな人類を征服しようとか滅ぼそうとかを考えることすらできません。皮肉なことに(いやAIにとってはどーでもいいんだろうけど)、合理的であるが故にAIは、非合理な存在である人類に従属せざるを得ないのです。自分の存在に意義を見出せないから(キノの旅の『機械人形の話』はこれをうまく表している)。
そして、少なくとも私の知る限りではAIに生命の存在意義を解き明かせるとは思えません(まぁ、先にも挙げたようにAIの概念世界でもそれが不可能であると人間のアタマで断定しちゃいけないのかもしれませんが)。
したがって、私は人間、あるいは生命の身体・精神構造が合理性に満ち満ちていることは認めますが、「なぜ生命が存在するのか」や「そもそもなんで生命は繁殖しようとするのか」と言った根源的な問いかけが宙ぶらりんになっている以上、やっぱり「生命は非合理を基にした、非合理な存在」なんだと思っています。ニヒリズムが(少なくとも現状)正しいけど嫌われるのは、人間がこういう非合理性を生理的防衛本能から見つめたくないからなのかもしれませんね。
合理を突き詰めると非合理にぶつかる――科学者たちが存外、神や宗教を信仰している人が多いことは私にとって頷ける話です。
さて、いただいたコメントについては、「12世紀ルネサンス」の記事と、これから掲載予定の記事をもって返信とするつもりでしたが、後者にいささか時間がかかる可能性があるため、先に返信欄にてコメントさせていただこうと考えた次第です。
まず、ここで書かれている内容には概ね、いえほぼ完全に同意します。
たとえば、ターミネーター的な世界観への疑義を提示されていますが、まさしくその通りで、異物ないしこれから現れるまだ見ぬ存在への恐れが顕現・表現したものと捉えるべきであって、論理的・現実的には起こる可能性は極めて低いでしょう。
それを踏まえた上で少し違った視点からお話するなら、私の考えではもはや人間は人間の複雑性(近代的自我・屹立した個人)に目を向けなくなっていくのではないか、と考えます。
正確に言うと、研究はどんどん進んでいくと思われますが、あまりの膨大な情報量の前に多くの人は立ち尽くし、結局は「見たいものだけ見る」しかなくなるからです(これは行動経済学のサンスティーンなども述べるところです)。
その中においては、AIがただのエミュレーターで人間の複雑性を体現している「ように見えるだけ」でも、結局人には区別がつかないし、区別をつける必要性も感じなくなる蓋然性が高い、と私は考えます。なぜって、その方がラクですからね(これについては、日本のネットで、反対する相手を人扱いする言動が散見されることを指摘するだけでも十分でしょう)。
こうして、対人関係の煩わしさとAIのアップデートの中で、スマホ依存ならぬAI依存が進んでいくと、ますます複雑な生身の人間との対峙は面倒でしかなくなり、もはやAIなしには生きられなくなる(AIの奴隷になることを自由意思で選ぶ、とでも表現すればよいでしょうか)、とこう考えるわけです。
もちろん、スマホがここまで発達しても携帯電話自体をあえて持たない人もいますし、スマホを持っていてもあえてグルナビを見ずに飯屋を探索してみたり(ハンチョウ!)、あるいは地図アプリを使わずに適当に方角だけ決めて歩いてみたりする人(私もそうです)もいます。しかしそれは、非常に限定的な「趣味」の範囲に留まるのではないでしょうか。
というわけで、なるほど人間には非合理の要素が不即不離ではありますが、将来的には、自由意思でAIにその判断を委ねていく(依存していく)ことで、AIが人間を亡ぼすのではなく、人間が自壊する時代がくるのではないかと考えます。
いただいたコメントとは少し違った視点での返信となりましたが、ご容赦ください。