沙耶の唄:エンディングの「失敗」草稿

2011-07-09 18:47:56 | 沙耶の唄

元々が草稿+解説という組み合わせなので、特に補足はなし。ベツニテヌキシテルワケジャナイョ。まあ一応言っておくと、最後の辺りでフーコーとかアリエスとかが断片的に出てきてるのは、「エミュレーターとディスコミュニケーション」と連なる作られた「本能」やら規範の歴史性やら境界線の恣意性の話をしたかったからであります。

 

<原文>
続エンディングの『失敗』」で沙耶の唄に関する記事がようやく一段落した。そこで次の話題へ移る前に、余剰物を残らず処理しておきたいと思う。


まずは表題にもあるように前掲の記事の草稿だが、これは「失敗」の説明やエンド1に関する詰めの部分が現行のものとは大きく異なっている(逆に言えばそれ以外はそこまで大きな違いはない)。「失敗」の説明を含む完成稿の<はじめに>は記事の方向性を明示するためにギリギリで付け加えただけのものだが、エンド1の詰め(評価)部分に関してはどんな方向性で書くかを決めるのにかなり難航し、完成が延び延びになる最大の要因となった。


もう少し詳しく説明すると、草稿においては主に沙耶の行動原理に対する作者の定義を問題にしている。しかしこのアプローチは、「作者のナイーブな期待と認識」で作者の時代状況などに対する見解の単純さをすでに批判しているから、これ以上突き詰めたとしても、「不当な要求」であるばかりか、下手をすると「単なる知識のひけらかし」といった印象しか与えず、量が増えれば増えるほどますます説得力が失われていくことが予想される(しかも、「自然」や「本能」といったカテゴリーのあやふやさであるとか、人間の定義などやたら抽象的な話になりそうでもあった)。ゆえにそのような切り口を極力避ける必要があったのだが、よりによってその部分だけがどんどん肥大化する傾向にあり、本編の記述を軸にした記事がなかなか構築できなかったのであった。


まあより詳しい内容はまた別の機会に触れるとして、あとは草稿を読んで判断してもらえればと思う。

 

【草稿】
前回の「エンディングの失敗」において、最初の選択肢で「取り戻したい」を選んだ場合、郁紀が沙耶を拒絶して沙耶に殺されるエンディングになるだろうと予想していたこと、しかも諸般の事情であえてその選択肢を選んだことを説明した。そしてこのような態度が、沙耶を異物として見なすとともにバッドエンドをあえて選ぶという点で、作者の期待するものに近かったと述べた。


しかし、実際のエンディングはどうであったか?
郁紀が元の近くを取り戻した時、沙耶は彼の前にはいなかった。一瞬フェイクかと思ったが、彼は鈴見家の一件で警察に捕まり、そこでの証言から精神病院に入れられることになった。そしてなぜか郁紀の病室を訪れる沙耶。彼女は自分の姿や声が彼に違和感を与えることを恐れ(正確にはそれによって拒絶されることを恐れ)、姿を見せぬままメールでやり取りをし、勇気のなさゆえに添い遂げられなかった二人の物悲しさを印象に残したまま別れる。つまり、そこにはあったのは拒絶でも死でもなく、ただ悲しい(?)別れなのだった。「こんな展開なの?意外やな~。」そんな軽い肩すかしのような感じでエンディングを見終わり、群馬県に旅立っていった。


このエンディング(以下「エンド1」と表記)が、沙耶の唄の印象にどのような影響を与えたのか、今となっては正確なことはわからない。ただ一つだけ言えるのは、研修から帰ってきて最後までプレイし、耕司が生き残るエンディング(エンド2)も沙耶が開花(?)するエンディング(エンド3)も見終わった時、そちらが人類にとっては「正しい」ものであると頭では理解しているにもかかわらず、エンド2がどうしてもバッドエンドに「しか」感じられなかったということである。そのような事情もあり、沙耶の唄を終えた後、一週間くらいの間様々な問題を吟味していったのだが、その度ごとに次々とパズルのピースがはまっていき、最終的には殿堂入りまでするに到ったのであった(沙耶が瑶を改造したのは彼女の感情的には嫉妬だが、構造的には彼女たちに滅びの必然性を与える→「神域の完成度」。郁紀が事故と手術で障害を持つにいたったのは、彼の状況を麻薬中毒患者のそれと分けるためだ→「記事の分量と凶行の相関関係」etc...)。


では、その過程においてエンド1はどのように位置づけられたのか?作者の意図である二項対立とその「失敗」という視点も絡めて説明していこう。「二項対立と交換可能性」でも触れたが、沙耶の唄においては郁紀と耕司の視点が等価のものとして(少なくともそう認識されるように)描かれている。エンド1は、両者の越境を描いているだけでなくそれを許容してもいるという点で、両者の交換可能性ないしは境界線の曖昧さを印象付ける上で絶好の役割を果たしている。もし沙耶の側があくまで異物でしかないという二項対立的視点(極端に言えば「人間=あるべき姿」という善悪二元論で、その視点によって沙耶と郁紀のセックスはホラーとなる。逆にその視点を持ちえないなら沙耶と郁紀の絡みは愛する者同士のセックスでしかなく、つまりは「恋愛もの」となる)を打ち出したいのなら、なぜ再び境界を超えた郁紀は死なないのだろうか?両者を決して相容れないものとして描きたいのなら、元に戻った郁紀には沙耶を拒絶させ「なければならないし」、沙耶はそのような反応をする彼を殺させ「なければならない」のではないか?そうして初めて、両者の理解が知覚障害という異常事態を通じてのみ成立する仮初のものに過ぎなかったことが強く印象付けられるであろう。しかし、郁紀は元に戻って沙耶を拒絶するどころか、普通(人間の側)に戻ることもできないまま、今も沙耶を想い続けている姿が描かれている。これでは、郁紀の沙耶への想いの強さや境界線の曖昧さは表現できても、沙耶=異物という印象を植え付けることは難しいだろう。


さらに言えば、エンド1における沙耶の不可解な行動もまた、沙耶=異物という見方を困難にする。ここで作者の沙耶に対する評価を参照すると、設定資料集の97Pにおいて、彼は「エミュレーター」という表現を使っている。これはおそらく、沙耶の言動や情動(?)が地球において生存・生殖するための模倣にすぎない、というぐらいの意味だろう。さて、もしこの理解が正しければ、やはりエンド1に見られる彼女の行動は不可解だ。そもそもなぜ、生殖のパートナー(?)を逃すようなマネをしたのだろうか?郁紀の前から姿を消したことを踏まえれば、彼の知覚を元に戻せば自分が拒絶されると認識した上で彼女は「手術」を施しているのだから、ますますもって理解に苦しむ。もっとも、これはエンド3で語られる「本能の欠落まで学習してしまった」という話で一応辻褄は合う(もっとも、それがどれほどプレイヤーの印象に残るかは非常に怪しいというのが私の  だが)。しかし、病院の郁紀に会いに来るのはなぜなのか?生存も生殖も関係ないのに…


これも「エミュレーター」?だったら逆に思うのだが、それって人間と何か違うのだろうか?少なくとも、本編からは有意差が伝わってこない。ゆえに、結局は人間との境界線の曖昧さが印象付けられる。しかも、感情移入という要素があるから…


でもおそらく最後の段階では印象が出来上がっていて、それは人間の鏡とか言っても遅い。


要するに番(つが)わないとダメだという近代的恋愛観に支配されていて、だから番いがいないと寂しい、と(対幻想と孤独)。


フーコー、アリエス、バダンテール
いかに「自然」や「本能」が作られたものなのかわかる。
「近代とポストモダン」の認知科学云々とは反対の視点


そう、おそらくは彼のエロゲープレイヤー観が邪魔をしたのだろう。それはすでに批判したとおり。


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