奈良時代の木造建築がもたらすノスタルジーについて書いたなら、やはり次は古びた校舎だよな(・∀・)!!何言ってるかわかんねーと思うが本当のことだ・・・というわけで、今回は久しぶりにSFCの傑作「学校であった怖い話」について書いてみようと思いマス。
学校を舞台にした怪談を6名+αが順に話していくこの作品を、自分はSFCで言えばロマサガ2やドラクエ5に並ぶ傑作中の傑作だと考えている。その魅力については「学校であった怖い話:クラシックとノスタルジー」(2016)や「学校であった怖い話の『傷痕』」(2019)などで触れてきたが、今回の動画によって、その輪郭がより露わになったのではないかと思う。
で、動画で説明されるその語り口調などについては次回扱うことにして、ここでは前にも触れた「ノスタルジー」という要素について、もう少し掘り下げて書いてみたいと思う。学校であった怖い話がもたらすノスタルジーとは、簡単に言えば、学校を舞台とすることによる親近感・懐かしさはもちろんのこと、その画質の粗さ、ピアノを主体とするクラシック風BGMといったすべての要素が、根源的な恐怖とも結びつきながら、プレイヤーに強い郷愁を感じさせるのではないか、ということだ(ちなみに学校という空間が持つ想像力は、例えば学校を一つの閉鎖空間に見立て、そこに籠る狂気を描き出したPCゲームの傑作「雫」などとも通底するものがあるし、またそのビジュアル的な鮮烈さは北野武の映画「ソナチネ」が万人受けはしないけれどもなぜ極めて強い感銘を与えるのかを考える上でも重要だが、それは別の機会に述べたい)。
しかしその魅力だけを語っても分かりづらいので、ここではPS版である「学校であった怖い話 S」と比較してみよう。まず、最も著名なシナリオの一つ、「仮面の少女」を例に挙げてみたい(上がSFC版で下がPS版)。
当然というか、PS版になったことで画質の点は改善している。しかしそのことでノスタルジーからは遠ざかり、かえって距離を感じるというか、非常に安っぽい演出になってしまってはいないだろうか。その原因は画像だけに起因するものではない。例えばSFC版のBGMは、儚さや悲哀が主軸となる中、音程の微妙なズレが確かな違和感を埋め込むような旋律となっているのに対し、PS版は単にそれを「異形」としてしか演出していない(この点は傑作「沙耶の唄」や九井諒子の作品などに共通する性質として述べたオフビート感覚の話も想起したい)。
そもそも「仮面の少女」自体が(一定条件を満たさないと見れない)隠しシナリオで、かつそこから「隠しシナリオ1」が派生するというこの作品の根幹をなす物語であるため、PS版ではどのように引き継がれるかが問われたわけだが、意図はともかく、BGMを俗っぽいホラー風味にしただけでなく、そのビジュアルも仮面以外に白を配した結果その存在感が薄れ、かつ目の表現なども安っぽいものへと変えてしまった(確かにSFC版は仮面以外がなぜ鈍色をしているのかという疑問もなくはないが、むしろその圧倒的な存在感の前には、かえってそれを強調する配色・演出として機能していたように思える)。その結果、物語の中心的人物である仮面の少女をさえ、「凡庸なる異形」へと堕してしまったのである。
一方でSFC版の方は、仮面の少女の異形性(音程のズレ)を十二分に表現しつつも、同時にその悲劇性≒理解可能性(儚く哀しいメロディ)を担保してたからこそ、ここまで印象深い存在・シナリオになったのではないだろうか。
もう一つの例として、エンディングを聞いてみよう(上がSFC版、下がPS版。PS版のエンディング動画見つからず・・・)。
先にPS版から言うと、グッドエンドの曲調からは明らかにノスタルジーを狙ってるのがわかるが、一方でバッドエンドの曲調は安っぽいホラーのそれを採用していることにより、ともに「狙っている感」が前面に出過ぎて、いかにも俗っぽくなってしまっている嫌いがある。
一方でSFC版は、グッドエンド・バッドエンドの画像こそ違うものの、曲自体は同じである。これは何らかの意図があったわけではなく単に「省エネ」だった可能性はもちろんあるが、しかしそうだとしても、この作品の性質・展開上はむしろ適切な結果をもたらしたように自分は思う。
というのも、たとえグッドエンド=主人公が生還したとしても、そこで経験した世界から完全に抜け出しカタルシスを得て終わり、という展開にはなっていないからだ。それを感じさせる例を二つ挙げてみよう。
例えばSFCのBGM集だとエンディングの一つ前は「解決」なのだが、それはOPで子供たちの影が異形に変化した後に流れるものと同じであり、その意味で「物語の解決によって最初にまた戻ってきた」と言う事ができる。それは別の表現をすれば、「円環構造として閉じている」のである。
また先に具体例として挙げた隠しシナリオにも、同じ性質が見て取れる。というのは、仮面の少女から派生するその後日談の「隠しシナリオ1」では、まだ主人公が仮面(の少女の記憶)に囚われたままの話であるし、数多くのシナリオをクリアしてようやく辿りつける「隠しシナリオ2」では、主人公が七不思議の特集をした時から2年が経過し、後輩の田口真由美という人物が1年生として登場する。そして主人公は彼女新聞部の七不思議の企画と取材の依頼をして終わるのだが、これは言うまでもなく主人公が3年生となって元の日野のポジションになり、一方主人公のポジションには田口が収まった構造とみなすことができる。
つまり、作品上の柱をなす二つのシナリオが、ともに一種の反復構造を暗示して終わるのであり(それは仮面の少女が言った「罪の連鎖」なども想起させる)、このような点から、七不思議企画からの生還=解決・解放とは全くならないと言えるのである(ちなみに、「非日常を経験した後は、もはや以前と同じ世界を見ても、昔と同じようには感得することができない」という構造は、物語の仕組みとしてしばしば採用されるものでもある)。
以上の点を踏まえると、この作品で描かれる七不思議企画を経た後での主人公は、たとえ生還したとしても、そこで経験したものが深く心に刻み込まれたまま、その後も生き続けることになるのである。こう理解したなら、学校であった怖い話のエンディングにおいて、PS版のように安直なカタルシスを得て「スッキリする」のは正しくなく、むしろ「迷路にいる心持ちを反芻しながらも、しかし最後に一縷の光を感得して終わる」というSFC版の曲調こそ、相応しいものだったと言えるのではないだろうか(あの反復の多いメロディは、もちろんあの長いスタッフロールを流すことに合わせて作成されたのだろうが、にしてもその雰囲気や構造が奇蹟的なほど作品の性質とよく重ね合わさっていると私には思えるのである)。
以上。
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