リスペクトのなきメディアミックスの問題点:個人以上に組織の構造を検証すべき

2024-02-03 11:33:26 | 感想など
 
 
 
 
 
 
 
 
この問題はもう少し先に扱うつもりだったけど、「学校であった怖い話」の記事で「改変」について話したことだし、この機会に触れておきますよと。
 
 
「セクシー田中さん」のドラマ化による原作改変と、それに伴って生じた一連の騒動が色々なところへ飛び火しているようだが、冒頭の動画も見て私が思うのは、「そもそもドラマ化が無理な案件だったんじゃないか?」てことだ。ドラマにする以上、漫画と同じように描いたとしても、それと同じような効果が期待できないため、改変せざるを得ないことは明白であり、そもそもが不可能な話だからである。
 
 
とすれば問題は、「なぜそれでも話が通ったのか?」だ。例えば「改変しないならOKという実質無理筋な条件設定をする=本当は断りたい」という話にもかかわらず、それを改変しませんという口約束でテレビ局や出版社が丸め込んだ、ということなのか?あるいは「改変しない」の定義に関し、両者(原作者とテレビ局)に懸隔が存在したのか??etc...
 
 
個々人にヘイトを向ける前に、まずその過程や構造的問題の検証を要求すべきであり(ゆせに第三者委員会の立ち上げは必須)、もしそうでなければ、脚本家個人を叩いたところでトカゲのしっぽ切りと同じで類似の現象は繰り返されるに違いない。あえて言えば、当該の脚本家はアイヒマンのようなものであり、それを擁護する必要は全くないが、一方ただそこに矛先を向けても、ナチの構造的問題を解決したことにはならないのと同じである(代わりの存在が類似の業務を代行するだけのこと)。
 
 
繰り返すが、テレビ局であれ出版社であれ、大組織にとって個人は切り捨てれば済むものでしかない。もちろん社員と個人事業主(業務委託)は異なるが、それでも契約における力関係のことなどを考慮すれば、松本人志と吉本のようなケースでもない限り、大組織>個人という傾向は避けられないだろう(もちろん、それで個人の失敗や悪行が免罪されるという話では全くないが)。よって、あくまでも組織に批判の刃が届くようにしていかなければならない。
 
 
ただ、営利企業にただ倫理や道徳を求めてもムダであり、お為ごかしの言葉で誤魔化すのがオチである(私が不思議に思うのは、これが通じると思っている人間が少なからずいることだ)。よって、ジャニーズ問題もそうだったが、真摯な検証や変化を伴わなければスポンサーの離脱など含め大きな不利益を被るように仕向けることのみ、問題と感じる企業・組織への制裁やコントロールを可能にするのではないだろうか。
 
 
とはいえまあ大手マスメディアはその自浄作用の無さを露呈した上に、24時間テレビの不祥事や水ダウの放送内容などで自爆行為を繰り返しているため、その凋落のスピードはさらに加速し、ますますこういった問題に知らぬ顔を決め込むことはできなくなっていくだろう。また、そんな状況にも関わらず、これまで通りの上から目線を変えることのできない間抜けな企業に入りたいと思う人間は減っていき、そのレベルの低下がさらに問題を引き起こすという負のスパイラルの中で、身動きが取れなくなっていくものと思われる。
 
 
以上。

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