amazonなどで本が検索・注文できる昨今であるが、本屋を物色していると強く興味を引く本を見つけ、そのまま買ってしまうことが時折ある。今回紹介する『レズ風俗で働くわたしが、他人の人生に本気でぶつかってきた話』もその一つだ。
本書は、まず著者がどのような経緯でレズ風俗に携わるようになったかを説明している。その上で、レズ風俗のスタッフをする上で出会った様々な人々の苦悩などが描かれるという構成だ。
私が強く印象に残ったのは、「単なる(上から目線の)観察者にならないように注意している」という点だ(誤解を恐れずに言えば、その点で対照的なのが中村敦彦の『名前のない女たち』と言える)。そもそも、著者自身が社会の「普通」に馴染めるように努力し続けていたこと、そこで思わぬ持病が発覚して「普通」のレールから外れざるをえなかったこと、などが語られている。
なお、その会社の「辞めさせ方」についてはそもそも法令上問題があり、後に弁護士を介してやり取りすることにもなるのだが、一見するとイントロダクション、つまりメインテーマではないように見える部分でありながら、この導入はかなり重要な箇所だと私は感じた。
というのも、家庭環境の影響もあって、著者は大学の勉強(ジェンダー・セクシャリティ)や就職活動などへ必死に取り組み、見事第一志望の会社に就職したのであるが、そこで自分の知らなかった障がいを知り、加えて(法令を遵守したものではない)突然の解雇という状況に追い込まれる。これは、単に生活が大変になるとかそういったレベルの話ではなく、自分がこれまで必死に積み上げてきたものが水泡に帰し、また自分が(妄信はしていないにせよ)理想としていた見ていた存在が社会的規範を守らず自分を「裏切った」という意味で深刻な自我の危機をもらたしたであろうことは想像に難くない。
このような導入を見ると、冒頭の会社員時代の話は、単に著者の来歴を語っているだけでなく、「いい大学→いい大学」であったり、「フルタイムで出社して継続的に働き続ける」、「会社は社員を守ってくれる」のような、「『普通』という観念の脆弱性」というより一般的なテーマが底流にあると解すべきだろう(念のため言っておくと、今述べたような観念を妄信している人はさすがに今日少なくなっており、ましてコロナ禍の現在ではそうだろう。しかし、そのような観念からの脱却できていたとして、それを現実に行動・評価のレベルまで実践できている人が、一体どれだけいるだろうか?結局は、何だかんだ言いながらも「リスクヘッジ」という形でそのレールに乗ってしまう・乗らざるを得ないという行動をしている人が大半なのではないだろうか?)。
著者は、この部分に関してかなり抑えた筆致で書いているように見える。それはおそらく、題名の「レズ風俗」に興味が湧いて読み始めた人にとり、そういう社会の脆弱性というものを長文で深刻に書かれても、煩わしいか不安を惹起されるかで、途中で読むのを放棄してしまうことを危惧したのではないだろうか。
だとすれば、その配慮は賢明なものだったと私は考える。確かに、「『普通』の脆弱性」や「『普通』という名の暴力」を冒頭で強く意識した上でレズ風俗を利用する人々のエピソードを聞くのとそうでないのとでは、全く印象が異なる可能性がある(例えば著者の来歴を意識すると、人によっては鈴木涼美の参与分析による『AV女優の社会学』などが想起されるかもしれない)。とはいえ、まずは「レズ風俗」なるものの理解・認知度を広げていかないことには、狭いコミュニティの中だけで正当性を訴えていても状況は改善しないわけで、そのためには広く人に知ってもらう必要がある。
そのための工夫として、実は本書全体に通じるエッセンシャルな話をしている冒頭のエピソードを抑えめに書き、あとは実際のレズ風俗利用者とのやり取りに紙幅を割くという構成にしたのだろう。
というわけで、本書の冒頭が意味するものについて説明したが、要するにレズ風俗者やそのスタッフの話をオムニバス形式でただ並べているのではなく、そこには確かな「視点」が存在しているということである。ゆえに、著者は冷静な分析も同時に行っており、自分が関わっているレズ風俗を単純に理想視してるわけではない(例えば、気軽にやりやすいものとして経営者からもスタッフからも見なされている状況にも言及)。そしてそういう視点を持っているからこそ、著者の「利用者に寄り添う」という姿勢がただの夢物語ではなく、それなりの戦略性をもったものとして読めもするのである。
というのが私がこの本を読んで特に印象の残ったことである。私は「普通という名の暴力」や抑圧の構造、あるいはそれに関わる作品も様々紹介してきたので、特にそこを強調させていただいた。ただ、本書の主要な魅力・強みは、やはりレズ風俗利用者たちの環境や苦悩についての丁寧な描写であることは論を待たないだろう。
たとえば、女性の方に興味があったのだが、周囲に合わせるために男性と結婚した女性の話。「レズビアンなのに結婚しているなんて、一番嫌われるから。何も知らない人には男性と結婚できるなら、レズじゃないでしょって言われるし、同じレズビアンなら楽な道を選んだ裏切り者ってみなされる。誰も私がどんな思いでそうしているかなんて、聞いてくれない。」という彼女の話は非常に印象的である。この後に、別のレズビアンの人の話で「男と寝られるならビアンじゃないって言われるんだけど、でも何もしてなかったらしてなかったで何て言われるか知ってる?『本当に好きな人と出会ってないだけでしょ、男でもなんでもとりあえず付き合ってみなきゃわかんないよ』だってさ」というものが続く。
ここで描かれる社会からのノーマライゼーションの抑圧については、映画「キャロル」や「イミテーション・ゲーム」など様々な作品があるのでここで詳しくは繰り返さない(ちなみに自分がすぐ連想したのは二つで、一つは新井祥の本に出てきたレズビアンだが男と結婚して自殺した女性の話、そしてもう一つは前に紹介した岡崎京子の『秋の日は釣瓶落とし』である)。もう一つ重要なことは、私たちはゲイとかレズビアンとかLGBTとか、「アウトサイダー」をそういう括りにすることで一枚岩の何かを想像してしまいがちなのだが、「日本人」や「アメリカ人」といったものが当然一枚岩ではないのと同じように、そこにも多様性とそれを無視した抑圧の構造(「『普通』という名の暴力」)が存在しているということだ(これは『ヒヤマケンタロウの妊娠』のレビューで述べたことと深く関係している)。
あるいは、精神保健福祉士でレズ風俗のスタッフになることを志願した人の話。彼女は「公的な資格を持って仕事に従事する人」であるが、そもそもそういう場所に来ないし、そういう存在を利用しないけれども、助けを必要としている人がいて、その早期発見をできないかと思いレズ風俗の仕事を思い立ったという話は非常に示唆的である。
というのも、これは私が最近度々取り上げているYou Tube動画やVtuberの活動の可能性とも繋がるからだ。
今回は簡潔に述べるにとどめるが、実態や症状への知識が共有されていなければ、早めに適切な治療を受ける必要がある人が、放置され続けた結果症状が悪化したり、最悪「壊れて」しまうということが起こりえる。しかし、社会的抑圧が強かったり、単に精神的な問題に還元されて「努力」という観点でしか評価されない状況があると、(先の話につながるが)そもそも医療機関を利用するハードルが高くなってしまったり、あるいはそもそもそういう志向性が出てこない(そしてそのまま症状悪化・・・)という事態が生まれてしまいがちである(これに関しては、単純に一緒くたにことはできないにしても、生活保護に対するバッシング状況を見れば思い半ばに過ぎるだろう)。
かかる状況を踏まえると、「情報へ気軽にアクセスできる環境」が必要なわけだが、その際にYou Tubeという「無料で特別な努力もなく見れるツール」と、Vtuberの「キャラを通じて話されることで、ダイレクトに言われるよりも話を聞きやすく・受け入れやすくなる」という特性が有効に機能しうるのではないかと私は考えている。
もちろん、誹謗中傷、陰謀論、疑似科学を始め、You Tubeに様々な問題ある動画が存在するのも確かであり、その注意喚起も極めて重要である(それに「悪貨は良貨を駆逐する」って言葉もありますしね・・・)。しかし、多様性が増しているのにノーマライゼーションの抑圧が強い社会においては、情報にアクセスすること自体のハードルを下げて知る機会を増やす、という環境づくりが極めて重要ではないかと私は考えている。
ということで、先の精神保健福祉士の方のエピソードは自分とベクトルが似ていて興味深いと思った次第である。
以上要するに、レズ風俗利用者たちの様を描いているというイメージを大きく超えて、本書は非常に豊かな内容を提示していると述べつつこの稿を終えたい。
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