ビースターズ:ビルという存在の重要性について

2019-11-30 12:48:44 | レビュー系

やっと最新話に追いつきましたわ~。

 

さて、これから先は山場だらけのジェットコースターみたいな展開が続くので、一体どうなっていくんやろか・・・と思っていたら、なるほどうま~い具合にエピソードを切り分けてきましたね。

 

原作知っている人は、ドキドキとニヤニヤが止まらないところだろう(いやまあ真面目に言うと、「わたしを離さないで」にも通ずる壮絶な話なんだけどね)。次の山場はもちろん「アレ」になるんだろうが、そうなると(これは原作にもあるが)停電時にビルがエルスを気遣っているシーンも別の意味で伏線になるわけだし。うーむ、よう考えられとるなあ。おそらくこの描写は、次のエピソードと合わせてルイが言った「俺を草食で切り分けるな!」とも繋がってくるのだろう。

 

登場獣物のスタンスや世界観もあって、視聴者はどうしても肉食VS草食という図式に誘導される。しかし、肉食の中にもビルがいて、レゴシがいて、アオバがいる。そして草食の中にもルイがいて、ハルがいて、エルスがいる。つまり、それぞれの身体性に基づいた相違はあるし、それによってグループもできはするけど、生育環境は違うし、またそれぞれの立ち位置や考え方も違うのである。ゆえに、ビルが草食というカテゴリーに対して同じ対応をするわけではない、という点に注意が喚起されている部分と言っていいだろう(一度あえて対立図式を意識させた上で、個別性にフォーカスするという見せ方をしているわけだ)。

 

ルイ・レゴシ・ビルの3頭で言うと次のようになる。ルイとレゴシは、その表れ方は全く違えど、自分なりの考え方がある、つまり「理」で動くタイプである。しかしビルは違う。彼は身体性に立脚して、つまり「性」(なんか儒教みたいだがw)で動くタイプである。このように言うとただの快楽主義者のようだがそうではない。あくまで社会のルールから逸脱はしないようにしながら、しかし己の欲求についてはそれを抑圧することなく肯定しているのだ(ここでの抑圧しないというのは「否認せずにその存在を肯定している」という意味であり、欲求の発散とはイコールでない点に注意を喚起したい。でなければ、彼は裏市で指を食おうとする行動を他でもやってとうに捕まっているだろう)。

 

だからそこに「悪意」はないし、変に抑圧的でもないから快活で裏表もないのだ(ムラ社会的メンタリティがネットによって世を覆い尽くし、自分に直接関係ないものさえ非難の対象となって息苦しい今の日本社会の環境を思えば、また抑圧から解放されるべしと「オールレンジグリーン」なんて意図的に書いてる私としては、これはこれで重要なスタンスであるように思える)。

 

動きと声があるアニメ版だと、内省的要素の割合が減ったこともあり、凛としたルイの声、気だるげなレゴシの声の中で、快活なビルの声はいい意味でアクセントになっており、原作以上にその存在の重要性が増しているように思うのは俺だけだろうか・・・

 

という視点で原作に目をやると、実は非常に興味深いのは今号が「ビル回」だったことである。作者は(どこまで計算づくなのかわからんが)その時のマイブーム要素を作品に投入しているのではないか?と思われる節があって、今回はアニメ版のビルを見て逆インスパイアされたんじゃないかと勝手に思っていたりする(アニメ版でタマゴサンドの件が出た直後で、しかも卵と鳥類の話題だしね)。つまり改めてビースターズ世界におけるビルのスタンスの重要性を作者が認識し、レゴシもルイもハルも登場しないビル回が、あえて設定されたんではないかということだ。

 

こう書くとなんか「思い付きワロス」みたいにディスっているように聞こえるかもしれないが、全くそんなことはない。原作未読者もいると思うのでぼかして書くが、進行中の事件がまともに解決していないのにいきなりでっけー話が登場して「おいおいこれ収集がつかんくなる典型パターンやないの?」と危惧していたところに、「理」よりも「性」のビルを主人公に持ってきて、いきなり日常性と身体性に話を揺り戻してきたところがさすがだと思うのだ(直感的にやっているのかもしれないが、それにしても天才すぎるわ)。

 

詳細はぜひ『チャンピオン』を読んでほしいが、要するにこれは、「お題目で他者を自分にとってかけがえのない存在として認識するようになどならない」というテーマだろう(まあ世の中には、「民主主義」とか「人権」、あるいは「国際法」などと言っておけば、それが擬制ではなく実在しているかのように考えるナイーブな人が少なからずいるのは事実だがね)。昨日書いた毒書会の話に引き付けて言うなら、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに答えがありそれに納得しているから人を殺さないのではない。社会に埋め込まれた人間は、人を害することに強い忌避の感情が生まれるようになり、「人を殺せなくなる」のである(だからこそ、その問いを投げかけられると多くの人は即答できずに詰まるのだ。なお、このような反応は「裏市」の話でも書いたペットと家畜の話にも通じる)。だからこそ、戦争においては人間を殺せるようにするために非日常的環境で訓練をするのだし(あるいは殺人を肯定できるよう「崇高な理念」を吹き込んだり、相手を悪魔化する)、また脱社会的な存在、すなわち「無敵の人」というスラングで呼ばれる人々は、自爆テロ的な殺傷行為に走るのである。

 

さて、だいぶ話が長くなった。ジュノやシーラ、あるいは韓国のことなども書こうと思っていたのだが、それは別の記事に譲ることとしたい。 


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