虚構の人物に共感ないし「感情移入」できるという考えは、まったくのところ幻想である。
共感・「感情移入」という言葉への違和感は、難しい社会理論などからではなく、「君が望む永遠」に関する様々なレビューを見て生うまれた。そもそも、主人公の置かれた状況に「感情移入」とやらができないのは当然ではないか?せいぜい、おそらくこんなところだろうかと推測するのが限界ではないか?とすれば、「感情移入」という言葉を平気で使えるのはレビューを書いている人間が独善的になっており、かつそれに気付いていないことを示しているのではないか?その証拠に、今述べたような言葉を垂れ流している人間に限って、表面的なところばかりしか見ていないのであった。
こうした経験から、共感や「感情移入」がどんな内実を持っており、かつそれがどうして虚構と言えるのか、といったことについて「共感・感情移入が作品を塗りつぶす」などで何度も述べてきた。また作品が「受け手の投影されたもの」であるという記事を通して、共感や「感情移入」は実に受け手の押し付けに過ぎないと結論づけたのであった。
とはいえ、共感や「感情移入」が単に虚構だけに関わる問題であったら、没入できるという幻想を切り捨て、しょせん虚構にすぎないという現実を意識させるだけの、「不粋な」発言に終わっていたかもしれない(もっとも、初期の頃から「痛み」といった一般的な例でその虚構性を説明してはいるのだが)。しかし、「共感の概念とその濫用:排他的心理・社会への道」などで指摘したように、共感や「感情移入」というのは、現実においても(特に価値観が多様化している今日)非常に危険な概念なのである(端的に言えば、子供への期待と虐待の悲劇、安易な一般化など)。
現時点までの論を大ざっぱにまとめると以上の通りであるが、これ以降は二つの方向から共感・「感情移入」を考えていきたいと思っている。一つは、現実の側面。こちらは心理学者や社会学者たちが共感をある意味と当然のものと捉えていることをふまえ、その問題点について書いていく(その際、再び共感の概念やその虚構性を中心に論じることになるだろう)。
もう一つは虚構の側面。こちらは受け手を引き込もうとする虚構の形式などについて考えていく。現在特に興味を持っているのは「ごっこ遊び」である。私達が小さい頃に一度はやったと思われるこの遊びは、もちろん何がしかの役を演じるのだけれども、時にはなりきるくらいに没入する場合もある。ゲームや作品の鑑賞とは異なり自分自身が動くため没入しやすいのだろうが、それゆえ特に「感情移入」を考える際に「ごっこ遊び」を取り上げるのは必須だろう。なぜ私達は「ごっこ遊び」をするのか(※)?そしてその効果は何なのか?非常に興味深い題材ではないか。もっとも、いきなりそこから入るのは難しいかもしれない。まずは祭りにおける鬼などの演技や演劇の形式などから考えていければと思う。
※
例えば女の子たちがおままごとをやることは皆知っているが、なぜおままごとをするのかは聞いたことがない。
共感・「感情移入」という言葉への違和感は、難しい社会理論などからではなく、「君が望む永遠」に関する様々なレビューを見て生うまれた。そもそも、主人公の置かれた状況に「感情移入」とやらができないのは当然ではないか?せいぜい、おそらくこんなところだろうかと推測するのが限界ではないか?とすれば、「感情移入」という言葉を平気で使えるのはレビューを書いている人間が独善的になっており、かつそれに気付いていないことを示しているのではないか?その証拠に、今述べたような言葉を垂れ流している人間に限って、表面的なところばかりしか見ていないのであった。
こうした経験から、共感や「感情移入」がどんな内実を持っており、かつそれがどうして虚構と言えるのか、といったことについて「共感・感情移入が作品を塗りつぶす」などで何度も述べてきた。また作品が「受け手の投影されたもの」であるという記事を通して、共感や「感情移入」は実に受け手の押し付けに過ぎないと結論づけたのであった。
とはいえ、共感や「感情移入」が単に虚構だけに関わる問題であったら、没入できるという幻想を切り捨て、しょせん虚構にすぎないという現実を意識させるだけの、「不粋な」発言に終わっていたかもしれない(もっとも、初期の頃から「痛み」といった一般的な例でその虚構性を説明してはいるのだが)。しかし、「共感の概念とその濫用:排他的心理・社会への道」などで指摘したように、共感や「感情移入」というのは、現実においても(特に価値観が多様化している今日)非常に危険な概念なのである(端的に言えば、子供への期待と虐待の悲劇、安易な一般化など)。
現時点までの論を大ざっぱにまとめると以上の通りであるが、これ以降は二つの方向から共感・「感情移入」を考えていきたいと思っている。一つは、現実の側面。こちらは心理学者や社会学者たちが共感をある意味と当然のものと捉えていることをふまえ、その問題点について書いていく(その際、再び共感の概念やその虚構性を中心に論じることになるだろう)。
もう一つは虚構の側面。こちらは受け手を引き込もうとする虚構の形式などについて考えていく。現在特に興味を持っているのは「ごっこ遊び」である。私達が小さい頃に一度はやったと思われるこの遊びは、もちろん何がしかの役を演じるのだけれども、時にはなりきるくらいに没入する場合もある。ゲームや作品の鑑賞とは異なり自分自身が動くため没入しやすいのだろうが、それゆえ特に「感情移入」を考える際に「ごっこ遊び」を取り上げるのは必須だろう。なぜ私達は「ごっこ遊び」をするのか(※)?そしてその効果は何なのか?非常に興味深い題材ではないか。もっとも、いきなりそこから入るのは難しいかもしれない。まずは祭りにおける鬼などの演技や演劇の形式などから考えていければと思う。
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例えば女の子たちがおままごとをやることは皆知っているが、なぜおままごとをするのかは聞いたことがない。
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