どうもこんばんわ、カラヤン伯です。そろそろ世は仕事収めのシーズンだと思いますが、私の会社は絶賛仕事モードです。つーか私は12月は11日・18日しか休みがなく、ついでに言えば年末年始の休みは1/2のみぃぃぃ!わーくらいふばらんすって何なんすかね?新手のスイーツ?球上回転式ドリブル?
という自虐的な話はこの辺にして、今日の放出ネタは「ひぐらしのなく頃に」でありんす。具体的には「精神主義という名の病」の草稿がこれにあたるわけやが、つーか何で今まで放置してたんやろか・・・
完成版を見てもらえれば言いたいことは大体わかると思うけども、一応言っておくと、鬼隠し編~目明し編には「子供視点からもほの見える、時には体感させられてしまう世界のどうしようもなさ」があり、それこそが単に悲劇に終わるということを超えて、受け手に考えさせること(まさに「惨劇に挑め」)を要求するものになっていたのではないか。ところが、それを無理やりハッピーエンドというかいい話の方向に持っていこうとした結果、様々なナイーブさが次々と露呈し、内容が幼稚になったばかりか、これまで批判的に取り上げてきた閉鎖的社会・戦争になだれ込んでいった日本の構造を自分が踏襲するという喜劇をやってしまったわけである。
てゆうかね、「善意があれば善き結果になるなんて考えはナイーブさそのものである」って別にマックス=ウェーバーに教わらなくてもわかるレベルの話でしょ。別に日常系の話に終始するんなら、それでほっこりして終わるのも勝手にシタマエって話だが、ひぐらしはダム闘争や利権問題、児童虐待、閉鎖的な社会の病理などなど、極めて社会性のあるテーマを自分からいくつも投入していたわけでね。ゆえに、そのような文脈の中で罪滅ぼし編以降書かれた内容は、ある種の生々しさがなくなったどころの話じゃなく、これまで営々と積み上げてきたものを自分で壊す行為だったと言えるわけで(じゃあたとえば戦争について主張と内容を一致させるならどんな作品があるんだよ!て言われたら、今なら「この世界の片隅に」を見ろってなるな。これは戦時中を描いているからとかそんな浅薄な理由ではなく、当時の人たちの置かれた環境やそこで生きる人たちの想い、そして希望や絶望が詰め込まれている。そこに奇跡など、間違っても存在しない。信じれば救われる的なハッピーエンドで終わる作品が、神国であることを標榜し、神風を期待し、一億総火の玉と言って破滅に突き進んでいったことを批判するなど、へそで茶を沸かすようなものだ)。しかもそうやって多くの批判にさらされたひぐらしの後に作者が生み出したのが「うみねこ」だからなー(漫画版は良いと思うけど)。そりゃあ人は寄り付かなくなるってば。ひぐらしについて評価すべき点は多々あると思うけど、批判すべき点もあまりにも多い。とりわけ以下に述べることが、この作品の説得力を失わせる上で極めて大きな要因となってしまった・・・とそういう批判である。
【原文】
ちなみに 「終末の過ごし方」
逆境に意気消沈せし魂を
問題は閉塞した想像力
それが暴力的となりうることを考えたことがあるのかしらん。
なければ「空気」
善きものを積み重ねればOK、なんて単純な問題じゃねーんだよ。
善きものへの反抗や嘲笑は存在しても、むしろ徹底して がゆえにそんな単純さに与しない、という立場は からかもしれんがあまり見られない
人権は仮構、人を殺してはいけない理由なんてありません。あると信じてもらった方が社会は回る、つーか信じる人間が多くないと回りませんが、それは人を殺してはいけないことが絶対的な真理であることを意味しない。
俺が嘲笑の淵源にて述べているもの、あるいは嘲笑するものとは、まさにそういうナイーブな精神性。
レナたちの行動(正確にはそれを善いものとみなす心性)を批判するのに非常にいい例がある。津波の時はとにかく自分が逃げなさい。それが結果として他の人も救う(てんでんこ)。安っぽいヒューマニズムならどんな時でも家族の安否を最優先に(自己犠牲の精神)、とかなるだろう(火事の時の描写)。で、結果としてみんな流されると。論理的思考の末に閉塞していく様が観察された。必然的、論理的な、あるいは誠実さの結果。あえてズレてるけど、いざとなったら論理的思考を元に~できると考えてる連中のなんとナイーブなことか!君が望む永遠への反応から見えた凡庸さ。
その津波の教訓、断念に比べれば、呆れるほどのナイーブさだと思いませんか?でも百歩譲ってそういう表現になるのはわかる。最初の作品、解答編を意識して作ってない。何より祟殺しで親密な者に対する自然な感情の発露とその悲劇を描いているのでまあ作者もわかっちゃいるだろうと思うし。しかし、そういう屈折なしであれに感動したり、疑問に思わなかったりする人たちって一体何なんだろう?身体張って助ける話に洗脳されてるんじゃない(週末)。そんなナイーブな連中がいるのを見ると、共感なんて枠組みを決して与えてはならないと思うね。
それは飛躍が…いや、要はそれに感動するのは善意があればいいという精神主義(行為を全肯定するのは論外)。地震の喩で言うと、一生懸命節電することに意味を見いだす、反対運動することに価値を見いだすメンタリティー。で、日本人はあんなに協力して節電するなんてスゲーとか言われて喜んでる。アホかと。問題は喉元過ぎれば熱さ忘れること。牛肉と同じ。アンチー信者という二項対立も同じ?。余計な手は出すなと?然り。ただ、たらい回し編あるんで言っておくけど、デタッチメントこそ正しいという意味ではない。やけに政治や社会に。作者は皆殺しで空気の問題扱う。戦争、丸山。
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