尼子氏、京極氏、佐々木源氏

2024-08-19 11:49:07 | 畿内・近畿旅行



前にも紹介した「尼子氏発祥の地」だが、入口にはその名も「土塁公園」とあり、そのままやんけと爆笑🤣


まあ現段階では足利尊氏側に与した佐々木道誉の孫である京極高久が築いた土塁跡が復元されてるだけなので、そういう名称にするのはある意味誠実とも言えようか。


なお、そんな失礼なことを考えていたためか、あるいは尼子駅付近で遮るもののない炎天下を歩き回ったためか、携帯がまたもに動かなくなり、カメラは起動できるが撮影はできないという状態に陥っていた。






そんな状況で唯一撮れた一枚。うむ、やっぱりただの土塁、というかもはや盛り土やね😅


まあ尼子駅では藤堂高虎や佐々木道誉の史跡(特に前者)がアピールされてたけど、何かしら人を呼べる見所を作りたい町と、活動の史料が少ない近江尼子氏関連の遺跡を残したい歴史家や好事家の意図が一致した、というところだろうか。


それにしても、この尼子氏の史跡については、名字って有用であると共に厄介だとも感じる事例である。例えば武田氏なら、戦国大名として著名な甲斐武田氏以外にも、若狭武田氏や安芸武田氏など各地で重要な役割を果たした武田氏も元は同じであるのはわかりやすい。


しかし佐々木→京極であったり、京極→尼子という具合に(分家で)名字が異なると、ちゃんと知ろうとしなければ繋がりがあることがわかりづらい。そして逆にわかってしまえば、出雲守護京極氏に同守護代尼子氏という立ち位置もすんなり理解できるものだ(尼子経久が守護になれたのも、例えば美濃における斎藤氏のような下剋上と同列に評価できないのもこの辺りによる)。


さらに言えば、そもそも佐々木道誉の「佐々木」って誰やねんという向きについては、佐々木源氏、つまり村上源氏や清和源氏と繋がりの深い一族というのがわかっていれば、それが鎌倉時代に重要なポジションにいたことや、かつその一族が北条と関わりの深い足利尊氏とともに幕府へ反旗を翻したことの影響の大きさは理解しやすくなるだろう(ただし、甲斐源氏のように、頼朝時代にはそれと並ぶほどの力を持ちえたが、後に衰退したような事例もあるので、時代における変化は考慮しなければならないが)。


なお、佐々木源氏から派生したものとしては六角氏がおり、近江の重鎮として室町時代(特に後期)は将軍の後見人となるなど大きな役割を果たしている。


・・・と書いてみた一方で、織田信長が「藤原信長」と名乗ったり、徳川家康が源氏の出を自称したり、さらには明治期には四民平等や平民苗字許可令などの変化の中、家系図の捏造もしばしば行われたりしたので、こういった情報は取扱注意でもあるのだが(要は社会秩序の変化のどさくさにまぎれて、自分たちの家に権威付けをしようとしたという話)。


とはいえ、イスラーム王朝の家系図改変でも触れたように、そういう偽史とその背景分析もまた、社会を理解する材料としては有益だよねと述べつつ(この話はまた近いうちに取り上げる)この稿を終えたい。

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