前回、共感が幻想であり、それが現在の社会にそぐわないことを述べたが、その幻想は実のところ日本語のファジーさ(曖昧さ)によって成立している。というのも、「感情移入の虚構性」のところで書いたように、(曖昧さの反対にある)説明という行為は「その他の可能性(想像の余地)の排除」に他ならず、特殊具体性を提示して送り手と受け手の差異を否応なく明らかにしてしまうので、同一化傾向の強い世界では(細かい)説明が避けられ、物事を曖昧にしておくことが好まれるのである。
例えば、「おもしろい」という感想だけなら解釈の余地がいくらでもあるため、他の「おもしろい」と思った人がそれを自分のものと同じだと考えることができるし、共感もしやすいだろう(もっともこれは極端な例であり、実際にはある程度の肉付けがないと内容が不鮮明すぎて逆に共感する余地がなくなってしまうようだが)。しかし、「~という点が…という理由でおもしろかった。」と言った場合、仮に同じ部分を「おもしろい」と思った人が見ても視点が違ったのなら共感したとは言わないだろうし、まして違う部分に「おもしろい」と感じた人はなおさらである。ゆえに、共感という幻想、すなわち「他の人と同じだ」という認識を得たいと思う場合、物事を明らかにする(特に細かな)説明という行為は避けられるべきなのである(共感という言葉は、「より深い理解」という意味に加え、「相手との近似性」や「距離感の喪失」という含意があるように見受けられる)。
とはいえ、「おもしろい」の中身を具体的に説明すれば差異があり、逆に説明をしなければ同じというわけでは無論ない。おもしろいと思った部分はそれぞれ違うだろうし、仮に同じ部分をおもしろいと思ったとしても、その感じ方は経験や好みなどによって実は大きく違っているのである(例えば具体的経験の有無による差異)。しかしながら、他者に対して共感できると思い込んでいる人は、その事実に気付かない。いや気付こうとしないのだ。こうして、上辺だけの言葉や文章から他者に共感できた(=深く繋がることができた)という幻想だけが一人歩きする。もし相手が本やテレビならば、彼の妄想を黙って受け入れるだけだからまだいいかもしれないが、生身の人間とのコミュニケーションであればそこには深刻な齟齬が生まれるだろう(作品と自己についてはこの記事も参照)。というのも、彼は相手にレッテル貼りと勝手な期待をするようになり、かつ自分が相手にしたのと同じように相手もまた自分に共感してくれるのが当たり前だと考えて身勝手な振舞をし、結果として誤解や「裏切り」による不毛な諍いを引き起こすと予想されるからだ(もっとも、程度の差こそあれ誰でも軌道修正はするものだ。それは付き合いの上手さ、あるいは「懐の深さ」と呼ぶべきものだろう)。
もし人の繋がりが密な閉鎖的社会であれば、共感を軸とした理解や関係性はむしろ合理的かもしれない。しかしながら、希薄化・拡大化・多様化している今日の社会において、共感という幻想はむしろ有害な「甘え」なのだ。なぜならば、その幻想によって人は他者を理解する努力のみならず他者に理解してもらえるように自分を語る努力をもしなくなるからだ(言葉を垂れ流すだけで相手は自分のことを理解してくれると思うため≒電波系)。
共感という言葉が「より深い理解」というニュアンスで使われていることは既に述べたとおりである。これはいかにもすばらしいことのように感じられるが、それを当たり前のようにできると考えるのは、むしろ安易な決め付けや埋没しか生み出さない。なぜなら、深い理解とは相手の経験則や時代状況などを理解して初めて可能なものであり、「当たり前」にできることでは到底ないからだ。にもかかわらず共感を自明のものと考える根源には相手の感覚・感情や自分のそれが「突き詰めなくてもわかる程度のもの」とする無意識的な決め付けがあるのだが、それは各々の特殊具体性を顧みない傾向を生み出し、結局は相手だけではなく自分をも貶めてしまうのである。
ゆえに、共感の危険性を早急に理解し、今日では通用しないその幻想から抜け出すことが必要不可欠なのである。
例えば、「おもしろい」という感想だけなら解釈の余地がいくらでもあるため、他の「おもしろい」と思った人がそれを自分のものと同じだと考えることができるし、共感もしやすいだろう(もっともこれは極端な例であり、実際にはある程度の肉付けがないと内容が不鮮明すぎて逆に共感する余地がなくなってしまうようだが)。しかし、「~という点が…という理由でおもしろかった。」と言った場合、仮に同じ部分を「おもしろい」と思った人が見ても視点が違ったのなら共感したとは言わないだろうし、まして違う部分に「おもしろい」と感じた人はなおさらである。ゆえに、共感という幻想、すなわち「他の人と同じだ」という認識を得たいと思う場合、物事を明らかにする(特に細かな)説明という行為は避けられるべきなのである(共感という言葉は、「より深い理解」という意味に加え、「相手との近似性」や「距離感の喪失」という含意があるように見受けられる)。
とはいえ、「おもしろい」の中身を具体的に説明すれば差異があり、逆に説明をしなければ同じというわけでは無論ない。おもしろいと思った部分はそれぞれ違うだろうし、仮に同じ部分をおもしろいと思ったとしても、その感じ方は経験や好みなどによって実は大きく違っているのである(例えば具体的経験の有無による差異)。しかしながら、他者に対して共感できると思い込んでいる人は、その事実に気付かない。いや気付こうとしないのだ。こうして、上辺だけの言葉や文章から他者に共感できた(=深く繋がることができた)という幻想だけが一人歩きする。もし相手が本やテレビならば、彼の妄想を黙って受け入れるだけだからまだいいかもしれないが、生身の人間とのコミュニケーションであればそこには深刻な齟齬が生まれるだろう(作品と自己についてはこの記事も参照)。というのも、彼は相手にレッテル貼りと勝手な期待をするようになり、かつ自分が相手にしたのと同じように相手もまた自分に共感してくれるのが当たり前だと考えて身勝手な振舞をし、結果として誤解や「裏切り」による不毛な諍いを引き起こすと予想されるからだ(もっとも、程度の差こそあれ誰でも軌道修正はするものだ。それは付き合いの上手さ、あるいは「懐の深さ」と呼ぶべきものだろう)。
もし人の繋がりが密な閉鎖的社会であれば、共感を軸とした理解や関係性はむしろ合理的かもしれない。しかしながら、希薄化・拡大化・多様化している今日の社会において、共感という幻想はむしろ有害な「甘え」なのだ。なぜならば、その幻想によって人は他者を理解する努力のみならず他者に理解してもらえるように自分を語る努力をもしなくなるからだ(言葉を垂れ流すだけで相手は自分のことを理解してくれると思うため≒電波系)。
共感という言葉が「より深い理解」というニュアンスで使われていることは既に述べたとおりである。これはいかにもすばらしいことのように感じられるが、それを当たり前のようにできると考えるのは、むしろ安易な決め付けや埋没しか生み出さない。なぜなら、深い理解とは相手の経験則や時代状況などを理解して初めて可能なものであり、「当たり前」にできることでは到底ないからだ。にもかかわらず共感を自明のものと考える根源には相手の感覚・感情や自分のそれが「突き詰めなくてもわかる程度のもの」とする無意識的な決め付けがあるのだが、それは各々の特殊具体性を顧みない傾向を生み出し、結局は相手だけではなく自分をも貶めてしまうのである。
ゆえに、共感の危険性を早急に理解し、今日では通用しないその幻想から抜け出すことが必要不可欠なのである。
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