前回の記事で、凄惨に始まり不穏さを残す最後で終わった第16話についてあれこれ書いてみた。ここでは、扱いきれなかった部分について言及しておきたいと思う。
今回のテーマは、「梨花の回想シーンは現実に起こったことなのか?あるいは未来への願望・妄想なのか?」である。未来の話は極めて断片的にしか描かれないものの、これが事実なのか妄想なのかで「ひぐらし 業」の世界解釈は大きく変わってくるため気になる部分だ。
結論から言ってしまえば、これを100%明確に判定する根拠はない。ただ、旧ひぐらしの「癖」、たとえば古手梨花の「予言」であったり、目明し編ラストで「you」とともに流れる生存者たちの情報からすると、「確定しているものは具体的に言及される」という特徴があると言っていい(もちろん、両者とも具体的描写には意図があるのだが、その説明は本論から外れるので割愛する)。
このことからすると、「昭和63年」や「聖ルチーア学園」という具体的な単語が出てきた時点で、「梨花の将来の夢が妄想と一体化して語られている」というよりは、「実際に起こった記憶を回想している」と考えるのが妥当だろう。
これを踏まえると、やはり昭和63年(=うみねこの事件が起こった年)に聖ルチーア学園に(おそらく高校生として)在籍していた古手梨花は、何らかの事件により「ひぐらし 業」の世界(=虚構内虚構)に飛ばされたと考えるべきだろう(まあこれはOP2番の歌詞からすでに導き出していた話ではあるのだけど)。
こう考えれば、うみねこと同じ世界構造であり(ただしあれは昭和63年の出来事をより未来から想像したものだが)、圭一の異常な生命力や梨花の殺害者が(鬼騙し編という留保事項はあれど)毎回違うといった「不自然さ」も説明がつく(ちなみにうみねこのep2では「死者が動き回る」という展開があったことも想起したい)。
ただ、「ひぐらし 業」の生成理由が好事家による雛見沢という閉鎖的世界への妄想(例:八つ墓村)なのか、はたまた梨花の懲罰を目的としたものなのかは断定しがたい。
前者ならうみねこと同じであり、おそらく梨花の「業」は聖ルチーア学園で何者か(八代幾子?)に自分のいた閉鎖的な世界で起こった惨劇をおもしろおかしく話してしまい(梨花がベルンカステルのテンションならいかにもやりそうだ)、それが何らかの悲劇を生んでしまったことの罰を受けている、という展開だろうか(まあそれだけのことであれほどの責め苦に苛まれるなら、雛見沢を差別的に見ていた興宮の人々とかどうなっちゃうわけ?という気もするが)。
後者だと、世界構造の理屈づけとしては苦しく、視聴者の納得感を得られるのかは疑問だ。とはいえ、前例としては賽殺し編がロジック的には近いようにも思われるし、猫騙し編の描写からすると現状ではこちらの方が説得力がありそうな気はする(雛見沢に直接関係ない人物の二次創作だとすると、梨花にこれほどの悪意が向けられる必然性が見出しにくいため)。
この場合は、前にも述べたように、「雛見沢を離れた後で沙都子に[?]何らかの悲劇が起こり、梨花自身が罪悪感に苛まれている」というケースか、「雛見沢を離れた後で沙都子に何らかの悲劇が起こり、詩音に激しく非難され罪悪感に苛まれている」というケースのいずれかではないかと考えられる。その根拠は、沙都子に時折おかしな行動が見られること=特殊性を感じさせる点に加え、詩音が一度も梨花殺しの犯人として描写されていない点、そして「ひぐらし 業」の世界が「梨花を殺す仕掛けに満ち満ちている」点の3つである。
ただ、いずれにしても一つだけ言えるのは、虚構内虚構である限り、「ひぐらし 業」の世界をただ生き延びようとしても意味がない、ということだ。その根拠を整理すると、
1:「ひぐらし 業」の世界の外におそらく本質的問題が存在していること
2:これまでの展開上、生き延びようとして旧ひぐらしの知識を元に奔走すると死ぬ構造であるということ
3:かといって何もしなければ、この「張りぼて」の世界がただ続いていくだけである可能性が高いこと
ことが挙げられる。1・2はともかく3がちょっと不明瞭に感じられる人がいるだろうから説明すると、第16話で繰り返される「雛見沢を受け入れよ」という要求は、それが凄惨な殺害シーンと連動していることも相まって、もはや「呪い」であると言っていい。
あまりの肉体的・精神的責め苦に苛まれた梨花は、その「呪い」を受け入れたのが(羽入の「5回」という発言が真実なら)第16話後半で描かれる最後の世界である。そこでは、惨劇のフラグになりそうなものは何も起こっていない。
以上の変化からすると、「ひぐらし 業」の世界は、現実では雛見沢を嫌って離れた古手梨花に、雛見沢を「ありのまま」に受け入れさせようとするという軸・ルールを持っている可能性が高い。そしてそのルールに反したら、旧ひぐらしから想定される必然性とは何ら関係なく、何者かが古手梨花を殺すという世界構造なのではないか(ちなみにこの予測が正しければ、16話最後の富竹・鷹野への接近もフラグとなってしまうのだが)。
であるならば、そもそもこの「張りぼて」の世界で生き延びるには、それを無批判に受け入れるしかなく、それはそもそも現実の問題解決にはなっていないし、梨花は現実の世界に戻れないことを意味する。
以上のことからしても、鬼騙し編~猫騙し編で見られた犯人個々人の動機付けや手口を仔細に分析することにそれほどの意味はなく、その共通性を見抜いて、そこから世界構造を理解し、「ひぐらし 業」の世界を生き延びるのではなく脱出することが必要と考える。そしてその仮説が、「『ひぐらし 業』の世界では生き延びることではなくむしろどう死ぬかがポイントであり、その方法はオヤシロソードの欠片による自害ではないか?」ということになるのである。
ではまた次の記事で。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます