こないだの毒書会で扱った『AI時代の労働の哲学』には、「AIが心を持っているのか」という疑問に対して、「そもそも人間の『内面』だって実在するかわかんないんだから、そんなに気にしてもしょうがなくない?」という趣旨の記述をしている部分がある。これに対しては様々な意見が出てくるだろうが、少なくとも私と対談者は「まあそりゃあそうだね(笑)」ぐらいの感じで意見が一致した。
というのは、(少なくとも私の理解では)一般に言われるところの「内面」とやらが神経伝達物質によって惹起する「本能的」・「自動的」なものか、あるいは「自由意思」とやらに基づく、(動物と異なる部分として)「人間的」とも言われる要素なのか、少なくとも現時点ではブラックボックスであるという話である(ちなみに「自動的人間」などというと、いかにも機械的・散文的な人間観に感じられるかもしれないが、例えば依存症や認知症など数々の事例を見ていると、近代以降の自由意思を主体とする人間観こそ一種の幻想にすぎない、と考えた方が適切な対処ができる場面は少なからずあるし、共生の作法としても有効だと私は考える)。
ところで、こういう話は以前書いた「共感」なるものの欺瞞といった話とも深く関わっている。というのもそれは、自己の感情・感覚というX,相手の感情・感覚というY、つまりは中身を明晰に見極め難い二つのものを、言語ゲーム的に同一だと妄想しているだけだからだ。
さらに言えば、XとYどころか、その人の経験や身体の状態、文化的背景などによって受容器官の反応も違うわけだから、私の受容器官Wと相手の受容器官Zというさらに二つのブラックボックスが存在していることになる(たとえば机に身体をぶつけた時の痛覚を、幼児も成年も老人も全く同じように感じるものだろうか?と言えばそうではあるまい)。
以上を踏まえるならば、なるほどある程度は間主観的にパターン化できるとしても(「悲しい」というのはプラスの感情ではない等)、実際には各自の妄想を言語などのツールですり合わせしながら何とか社会を構成していると言える。こう言うと驚かれるかもしれないが、実際に同じ人間を人間扱いしない差別的発言が跳梁跋扈し、何か起こるとそこにテンプレかのように自動機械のような反応が生じているのを見る時、今述べたような事柄の実例は日常に溢れているのであり、我々が社会を構成する際に土台となっていた幻想が、まさに崩れていっていることを目の当たりにすることができるのだ。
そうである以上、ボーダーレスで情報化が進展し多様性・複雑性が当然のものとなってきている現代社会においては、同じ言葉を使っていてもニュアンスは違うことを言おうとしているとか、あるいは同床異夢なんていう事態は以前よりも遥かに起こりやすくなっているわけで、「共感」幻想は相手を無批判に同質的存在として認識することへと繋がり、その期待への幻滅から今度は排除の論理を正当化するものとして機能する、つまりは危険性の方が高いと考えるべきだろう(そもそも、わからない・異なっているという前提からスタートする構えを持つのが重要ということだ。この点に疑問を感じる方は、鷲田清一の「わかろうとする姿勢」や平田オリザの『わかりあえないことから』などを参照されたい)。
このような話につながる作品として、これまで私は『秋の日は釣瓶落とし』や『ヒヤマケンタロウの妊娠』などを取り上げてきたが、最も深く関係するのは「沙耶の唄」だろう。この傑作についてはすでにかなりの量の記事を書いたので詳しくは繰り返さないが、端的に言えば次のようになる。
沙耶を人間と同じ「内面」のある存在として認識するのがプレモダン(古代・中世)的反応で、これは本作を疑いもせず(言い換えれば「なぜそのように見えるか」を考えもせず)「純愛」を描いた作品と認識する反応に準ずる。
次に、沙耶は人間という存在を模倣しているだけで「内面」は存在せず、コミュニケーションが成立している「ように見える」だけとするのが、人間とそれ以外(動物など)を截然と分けるモダン(近代)的反応で、作者虚渕玄の視点はこれにあたる(二分法的世界観がわかりにくければ、デカルト先生を連想してどうぞ)。
そして最後に、次のような立場がある。すなわち、そもそも人間の「内面」とやらも観測不可能であり、言語という媒介を使ってコミュニケーションが成り立っているかのような幻想の中を人間は生きているだけである。また人間が自由意思に基づいて選択していると思っている多くの事が、実は神経伝達物質の働きによって「自動的」に選択したものをあたかも己が意思したように後付けしたに過ぎないことが認知科学の領域などでわかってきている。であれば、一体そのような人間と沙耶の間にどのような違いがあるというのか、いや同じである、と。これがポストモダン(後期近代)的反応である。
私は人工知能やシンギュラリティの問題系を学び始めた時、その問題意識はスムーズに理解できるように思ったし、ゆえに興味深いとも感じたが、それはすでに「沙耶の唄」という作品で類似の問題意識や思考実験をやっていたことが大きいと思われる。
最近半ばネタとして繰り返し書いている「VRテンガ」を含め、今後ますます人間の動物性というものが曝露されていくだろう。その時に一体人間観というものがどのように変化していくのか、そしてどのような共生を模索するのか、はたまたしないのか、その点興味が尽きないところである。
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