「学問のたこ壷化・島宇宙化」という言葉さえ言い古された昨今、俯瞰的な視点を持つ論理的考察は鳴りを潜めて久しい。実証的研究が当然視され、かつ一分野の先行研究でさえ膨大な量に上る今日、様々な分野を橋渡しするような研究は途方もない労力を要する上に他分野からの批判を受ける可能性も高く、研究者たちが慎重にそれを避けようとするのは蓋し当然のことと言えよう(様々な分野の研究者が集まってプロジェクトチームを作る、というケースはもちろんあるが、それを個人のレベルでやっているのは稀有ということだ)。否、正確に言えば、そのような纏いをした言説なら、今でも存在はする。その端的な例が陰謀論なわけだが、実際のところ、それらは複雑なる世界を無理やり一つの論理で説明しつくそうとするものであり、到底耳を傾けるに値しない(その典型が、虚妄に彩られた『我が闘争』だが、『帰ってきたヒトラー』を読んでみるとその論理展開のあり方や人がいかにそれに飲み込まれていくのかも見えて興味深い)。
そのような意味において、『サピエンス全史』はまことに類稀な著作といえよう。いわゆる先史時代から始まり、今後の我々の社会の行く末までを考古学や人類学だけでなく、社会経済史や科学史といった様々な視点で描いているわけだが、サピエンス=人間の「認知革命」すなわち虚構を信じる能力(?)が大規模な集団形成を可能にし、それが他の集団を圧倒する要因となったことする説明は興味深い(かつては人間と動物の差異を説明する際には「言語」がしばしば用いられていた。この著作の中で、筆者は他の動物にも鳴き声や超音波という形で存在していると言及していることに注意を喚起したい。そのような前提を踏まえ、筆者は我々人間と他の生物の差異は何かを考えた結果としてこのような視点を提起しているのである。とはいえ、認知科学の発達が示すように、自分で自由意思だと思っているものが実は自動機械的な行動の産物に過ぎないことも多々あるのであり、人間とその他の生物を完全に二項対立的にとらえることは危険なのだが)。
「虚構を信じる力」という表現は、何とも曖昧模糊としていて理解しがたく、ゆえに信じがたいものと思われるかもしれない。だが、宗教や自殺などを想起すれば、非常に納得のいく説明と言えるのではないか?たとえば自殺を行うのは(おそらく)人間だけだが、その原因は病苦や経済的苦しみなど様々あれど、共通するのは「これ以上苦しみたくない」という点だ(安楽死の件を想起されたい)。これは「将来」という「形のないもの」を思わなければ生じない行動と言えよう。少なくとも私は、そのように考えたがゆえに、非常に説得力のある措定だと感じながら読み進めた次第である。
さて、筆者の措定する認知革命はただサピエンスがネアンデルタール人などに勝利し生き残っていったことを説明する材料となっているだけではない。前述の宗教はもちろんのこと、帝国の形成、貨幣の発明、科学革命の要因、資本主義の始まりといった諸々の重要な要素に須らく「虚構を信じる力」が関わっていることを説得的に説明しているのだ。これこそ、このサピエンス全史の白眉と言っていい(帝国の形成については、軍事力だけでなく「法」が極めて重要な役割を果たしたこと、そしてそれを筆者が強調していることに注意を喚起したい。また貨幣は、ブレトン=ウッズ体制が崩壊してもはやドルと金の兌換が停止されたにもかかわらず、今日の我々がそれを使い続けている理由を考えるだけで十分だろう。資本主義については、その源泉となる成長への期待と投資の行動について、虚構を信じる力を元に説明しているのが大変興味深かった。そして科学革命の要因が、無知への認識、すなわち今はまだ出会ったことのないもの、「見えぬもの」がこの世界には数多存在するという認識であったとの説明は目から鱗であった。対立するものとして、すでに真理は示されていて、答えは過去にあるとする立場だと筆者は述べているが、この対立軸がいわゆる「普遍論争」の唯名論と実在論だと気づくのは容易だろう。前者がロジャー=ベーコンらを先駆とする実証主義へと繋がり、これが近代科学へとつながっていく・・・という教科書的な説明がこのように根拠づけられていたことに大変感銘を受けた)。
ではこの書は、そのような人間の力を言祝ぐためのものか?答えは否である。そのような「虚構を信じる力」が自家中毒的に我々を蝕んでいく様を、筆者は下巻の19章で確かに描いている。つまり、私たちは見えない将来を思うが故に我々の期待は際限がなく、それゆえ500年前であれば不満に思わなくて済んだことを今日の我々は猛烈に不満を感じうる。ここは筆者が出す例がわかりやすいと思うので、医療技術が発達した将来で考えてみよう。もし不老が可能になった場合、それが可能な人とそうでない人の格差が生まれ(アンチエイジングのことを考えるまでもなく、その技術と維持には膨大な金額が要求され、誰もがそれを継続できるわけでないのは容易に想像できる)、ゆえに後者は強烈な不満に苛まれる。今まではたとえ王族でも大統領でも大富豪でも貧乏人でも、老いと死だけは平等に訪れていたのに許せない!というわけだ。ではそれが可能となった富裕層は幸せなのだろうか?おそらく否である。次に訪れるのは、不死ではないことによる事故死などの恐怖がつきまとうからだ。犯罪率が下がったにもかかわらず、否それゆえに凶悪犯罪が目立ち喧伝される昨今の日本を思えば、その時の富裕層の恐怖を想像するのは容易なように感ぜられる(これと同じ視点は『昔はよかった と言うけれど』や『日本人のしつけは衰退したか』などともつながる。なお、このような人間の主観的幸福度、あるいはそれを元にした世界認識のあり方について、仏教の考え方に触れている点は興味深い)。そして人間に取って代わりうる存在の登場の可能性を考察しつつ、本書は終わる。
以上が本書の大まかな構成と私が興味を惹かれた点である。もちろん、これ以外にも特筆すべき点は多々ある。たとえば、宗教を切って捨てるのではなく宗教的思考が構成される様をメタ的にトレースした点。これは下巻第12章を中心に取り扱われているが、中でも次の表現は興味深い。
「一神教は秩序を説明できるが、悪に当惑してしまう。二元論は悪を説明できるが、秩序に悩んでしまう。この謎を論理的に解決する方法が一つだけある。全宇宙を創造した単一の全能の絶対神がいて、その神は悪である、と主張するのだ。だが、そんな信念を抱く気になった人は、史上一人もいない。」
宗教というものの思考様式を客体化できているがゆえの至言であろう。 私自身も10年以上前に「神の可能性:人類・地球の存続に関して」という記事を書いたことがあるので大いに頷けることである(ちなみにこの視点は「人間に生きる意味はない」―より正確に言うと、「願望と事実を取り違えるな」―という話ともつながる)。これはもしかすると、宗教というものがごく近くにありながら自分自身は宗教にコミットしない(しなかった)人間に生じやすい視点なのかもしれないが、ともあれ宗教というものが所詮人間が自らの精神的安寧のために作り出したものに過ぎない、という宗教の限界点を示す事案として明記しておきたい(ついでに言えば、論理的に筋が通っていることはそれが真であることを全く意味しない)。
ところで、この著作に対する批判があるのも別段不思議なことではない。そもそも「認知革命」を科学的に証明する(トレースする)ことはできてない(というかできない)し、また将来像が「超ホモ・サピエンスの時代」で次回作が『Homo Deus』であれば、その受け入れに慎重になるのは当然のことと思うからだ(わかりやすく極端な例を出すなら、北一輝が、人類は進化して「神類」になるのだ、と書いてるのを読んで「何を言ってるんだコイツは?」と疑問に感じるのと同じ。むしろ、そのような穏健な懐疑主義を持たぬ人間は、ただの「ハラリ信者」となるだけであって、それは筆者の望むものではないだろう)。そこについては、筆者が度々controvesialな言説については複数の言説を取り上げて結論はあえて出さずにいたり、かなり控えめな表現をしていたりする点(つまり研究者として誠実たらんとする姿の表れ)をよく見て、ある部分は大いに参考にし、ある部分は批判的に見るというのが生産的な対し方というものだろう。
筆者が述べるような世界は『地球幼年期の終わり』であったり、『祈りの海』であったりと、SF作品ともつながる部分が多々ある。しかしそれは、この著作が空想の産物であることを意味しない。むしろ、「メッセージ」のような映画が我々の時間感覚(そして生き様そのもの)を問い直すものであるように、産業革命以降私たちの時間感覚や生活スタイルが大きく変わったことを思いながら、これからの社会のあり方や(何をもってかはともかく)よりよき未来を思考・模索するきっかけとして、この豊かな著作がより多くの人に読まれることを願うものである。
※
私たちの認識の仕方が大きく変化するだなんてバカバカしいと思う人は、本書にも出てくる時間に支配された今日の生活とその由来を考えてみるといい。実のところそれは産業革命における産業化・労働力の集約・大量生産のため、集団で人を効率よく動かす目的で時間管理を始めた結果なのだ。このように、人間の行動様式は社会のあり方でいかようにも変化しうるものでしかないことに注意する必要がある(ゆえにたとえば、超歴史的に措定された「時間に几帳面な日本人」などというものは、江戸期・明治期の外国人の見聞からも明らかなように、まさしく妄想の産物にすぎない)。
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