えーと、これなんて読むんだ?「かさじゅ」なわけーし・・・ああそうか、「落下傘」て言うから「さんじゅ」ね。てゆうか「サンジュ」って書くとなんかファンタジーのキャラクターみてーだな。
おっといきなりすいません、ムッカーです。今日紹介するのはおざわゆき『傘寿まり子』。おざわゆき作品は『凍りの掌』・『あとかたの街』に触れる記事を書いたきましたが、今回はその第三弾というわけですな。
小説の『終わった人』など、定年後の(言い換えれば「一線を退いた」)老人を主人公とする作品が話題となり始めている。高齢化社会という言葉が人口に膾炙しすぎて飽きられてすらいる(?)ような状況を考えれば、当たり前の話だろう。漫画でも以前紹介した『さんさん録』などがあるが、80歳の女性を主人公にした漫画というのは私の知る限り初めてであり(対抗馬は「ババアゾーン」くらいか?www)、それ自体で話題性はあるだろう。
では中身の評価はどうか?まず、個人的にはおもしろいと思った。おそらくは「狭い世界」でそのまま鬼籍に入るだろうと思われた人物が、突如社会の真っただ中に放り出される。その老人による社会観察と冒険譚となるわけだが、主人公が小説家であるという経歴がここで生かされ、新しい世界を知った主人公の変化が今度は作品にもフィードバックされるという構造になっている。この作品に対しては、批判も当然あるだろう。お話を転がしていくために次々とかつての縁や新しい縁ができていくが、それを非現実的だと感じる読者はもちろんいるだろうからだ。また例えば、捨て猫を拾う話にしても、老婆が家に数十匹の猫を飼って部屋が糞尿だらけになり、異臭も含め周辺の家庭に多大な迷惑・損害を与えたというニュースが昨今あったが、つまり「キャパシティを超えた善意」の末路はそのようなものにしかならないのである(まあ個人的には殺処分とか大量の捨て猫・犬問題を本気で解消したいなら、ペット販売そのものを止めて、里親制度とかに絞ってしまった方がいいと思うけどね)。
そのような批判がある程度妥当と思う一方で、ゆえに読む価値のない作品だと断じるのは違うと感じる。なぜか?
たとえば、最新刊で出てくる雑誌の将来と主人公の作品打ち切り。なるほど主人公まり子は傘寿であってすでに「終わった人」としてみなされるようになってきている(「終わった人」というと社会的な意味合いに取る人が多いだろうが、「老人が恋愛するなんて気持ち悪い」と言われるエピソードもある。つまり、もはや人間扱いすらされていない描写があるという点に注意を喚起したい)。しかしそれなら、そもそも雑誌という媒体そのものはどうなのか(雑誌が続々と廃刊になっていることは、もはや周知の事実である)?そこで主人公はネットで作品を発表するということを思いつくのだが、紹介された作家からは痛烈に無知を指摘されつつも、最終的には成功のための戦略を提示される。主人公の同行者が怒る演出によって作者がわざと作中人物に無礼な言動をさせていると理解できる場面だが、それにしても、この人物がいわゆる「シャッター商店街」に住まっている点はいくら強調してもし過ぎることはない。つまり、この作家の言行の背景には、旧きものの終焉という冷静な事実認識があり、その中でいかに甦るか、あるいは生き延びるかという厳しいリアリズムがあるわけで、その石つぶてにも似た言動は、独り老人だけでも、雑誌だけでもなく、旧きものにしがみついてそのまま泥船とともに沈みゆく全てのものに向けられていると解釈すべきだろう。
ここで、高齢化が少子化と並行して起こっていて、人手不足や限界集落の問題、あるいは生産性向上の必要といったことを読者は想起するはずで、つまりはここにおいて話のレイヤーが一気に変わり、ただの老人の去就でも冒険譚でもなく、黄昏を迎える日本社会そのものの縮図へと昇華されているのである(前の「安楽死を遂げるまで」でも書いたが、医療技術の発達で不老が達成され、そもそも老衰が安楽死と同義になるような社会が来る可能性があるし、あるいは人工知能の発達で人間の多くがただ消費をするだけの無用の長物化する可能性が十二分にある。つまり、何となく生活が楽になるとか苦しくなるといった近視眼的なレベルを超えたパラダイムシフトが我々が生きているうちに可能性は少なくないのである)。
この物語がどこに着地するのかはまだわからない。私は広大で多様な世界を知った主人公がそれでも最後は家に戻る選択をしそうな気がしているが、もしかすると上野千鶴子的にハウスシェアリングのような結末にするならそれはそれでアグレッシブでおもしろい。
そういう理由で、今後も注目していきたい作品である。
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