幻想としての「忍者」から見える想像力の地平

2018-11-14 12:38:42 | 歴史系

 

「懐古廚」にならず正しく「保守」であろうとするのは、よほどの知識と、何より謙虚さを持ち合わせない限りは不可能である(ちなみに保守とは「漸進主義者」のことであり、今のシステムを変えたくないと主張するのは「失敗の本質」で取り上げられるようなただの「前例主義者」か、あるいは頑迷な「反動主義者」かのどちらかである。この三者がしばしば混同されるのは、致し方ない部分はあるものの、実に悲劇的なことだ)。

というのも、我々の知識がしばしば改変されたものであったり、あるいは我々の生きた環境がその時限りのものでしかない事例があまりにも多すぎるからだ。それはたとえば少年犯罪専業主婦時間間隔祭りと無礼講(筆おろしなど含む)宗教とその役割公共空間でのマナー、歴史上の人物たちの様々なエピソード(義経伝説・真田十勇士etc...)であり、冒頭で語られる「忍者」もまたそのうちの一つである。

我々のイメージする忍者象が後世の創作にすぎないことはもちろん、その時代背景、かつまたその継承が(おそらく意識してない人が多数であろう)「戦隊もの」であることが丁寧に説明されているところが興味深い(なぜなら、単に創作云々と言うだけなら「まぁそれはそうだろう」とスルーしてしまう人も多いと思われるので)。もちろん、そこでも言われているようにまだ不明な点もあるが、こういった切っ掛けをただの表層的な情報で終わらせるか、それとも世界のリフレーミングとして取り入れるかが受け手の今後のあり方を決めるだろう。ただ少なくとも、後者のような姿勢を取らない人間は保守主義者になる素養が欠けている、とだけは言えるだろう(つまり、ただの懐古厨か情報オタクになるしかない、ということだ)。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「魔法少女まどか☆マギガ」が... | トップ | ノーハニカムノーライフ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史系」カテゴリの最新記事