「さて、今日も朝活するか。AI屋~」
「毎度~」
「今日のモーニング・シコルスキー頼むわ」
「『和室に坐す水着の黒髪ロング』でどないでっか?」
「じゃあそれで。いくら?」
「2円です。」
「安(や)し~😀」
とまあ往年のクレイジー古典『えの素』的カンバセーションから始めてみたが、己の欲望を適切にコントロールせんがためAIをトランキライザーの処方者が如く最大限に活用し、もってその銃声獣性を解き放った上で十全な社会性を発揮するのに最適な状態を作り出し社会生活を営む・・・なんてのが近未来の社会人の嗜みとなっているかもしれない(ちなみに「えの素」アニメ化だそうで、おめでたうございやす)😀まあこのあたりは色々なSF小説にも出てくる設定なんで今更って感じではあるが、AI作画の発展ぶりを見ていると、それがいよいよ現実味を帯びてきている様を実見している心持ちになる。
さて、似たような話ばかり続けていても芸がないので少し他とつながる話を一つ。以前「余裕」がないと豊かな文化は生まれないという話を書いたが、言い換えれば文化の爛熟には金銭的な余裕が必要である。でなければ、ほとんどの人にとっては生活するのが手一杯で、プラスαの部分に時間を傾ける余裕はほとんどなく、せいぜい一部の階層の嗜みにしかならないからだ。
その点で言えば、経済衰退とともにいつ下の階層へ転落するかわからぬ恐怖と自己責任論に怯え、同調圧力に苛まれながら暮らす近未来の日本の人々は、ますます生活のプラスαとなる部分に割く金銭的余裕がなくなっていき、安価でインスタントに欲望を満たしてくれるモノへのニーズがいや増すことが予想される。
つまり「試行錯誤より予定調和」、「教養よりファスト教養」、「ノイズのある他者よりプログラミングされたbot」、「生身のペットよりVRペット」etc...という具合に(まあ所属の欲求や承認欲求をどこから調達するのかって問題は残るんだけどね。逆に言えば、それ以外は「趣味」や「嗜好」の問題と化す)。AI作画についても、今でこそ様々批判が大きいが、今の流れのようにして人の手によるものとのニーズは逆転していき、そちらがより求められていく可能性が高いと考えられる。
というわけで次回に続く。
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