表題の通りである。かなり言葉は荒いがあえてそのままにしておく。
<共感とは尊重ではない>
ところで、自分の特殊具体性も相手の特殊具体性にも注意を払わないのは、その対象を尊重しているとは言えない。これはあたかも、路傍の石の違いに注意を払わないのと同じである。そんなところに[今日理想であるかのように言われる]個性なんて生まれるのかね?まるで羊水から出られない中毒患者たちだ。それを見て必死に自分は違うと曲学阿世な意見を言ってみたり、外側で差異を主張することに躍起になる。「普通」という[空洞の]テーゼと真逆のアンチテーゼだけが罷り通る。
※
要するに、無意識的な同一化傾向に気付き、「普通」を(鵜呑みにするのでも否定すしきるのでもなく)相対的なものとして見る姿勢がなければ、おそらく個性と言うものは生まれえない、ということである。それなしに生まれるのは、個性ではなく「甘え」と無様な自己主張だけだろう(「個性の尊重と説明能力の欠如の関係」)。
<共感とファジー>
感情や感覚は「あえて」ファジーなままにしておかれる。なぜかと言えば、そのファジーさゆえに「共感」できるからだ。明らかにすればするほど特殊具体性が浮き彫りになって、「同じであるという幻想」を共有できなくなってしまう。だから何も突き詰めようとしない。これが「共感」にまつわるカラクリである。もっとも、この態度が絶対的に悪とするのなら、それは行きすぎだろう。たとえばその幻想が無用な諍いを止めることもあるだろうし、団結力に繋がることもある。親和性の強かった昔なら、たとえファジーな言葉であろがそこに比較的誤差は少なかったのかもしれない(※)。
※
ただし、そのような親和性なるものが異分子(アウトローや今日で言う精神病患者たち)の隠蔽によって成立している可能性を考慮しないわけにはいかない。もしそこに注意を払わなければ、我々は過去の「普通」を鵜呑みにし、その暴力を無意識に行使することになるだろう(過去の人間が「何を普通と見なしたのか」は非常に重要だが…)。
<「普通」という名の暴力>
しかし、価値観が多様化すればするほど、ファジーさに基づく共感なる幻想が通用しなくなるのは自明の理だ。いや通用しなくなるどころではない。それが勝手な期待や押しつけを招き、かつ相手を理解しようとする姿勢を減退させさえするだろう(言葉の多様性、「おもしろい」とは何か?)
<理解と共感の原点>
『追跡者ストーカー』という本の後書きに出てきた「理解はできる(共感ではない)」が理解と共感の差異を意識し始めたきっかけ…どう違うのか?理解=言葉どわかる、共感=感覚でわかる。でも感覚でわかるつったって、結局相手の言葉を聞いて考えてんだから理解なんじゃねえの(理解はできるが納得はできない、てんならまだわかるが)?じゃあ共感ってそもそもありえるの?[その虚構性については既に説明したとおりである]
<共感とは尊重ではない>
ところで、自分の特殊具体性も相手の特殊具体性にも注意を払わないのは、その対象を尊重しているとは言えない。これはあたかも、路傍の石の違いに注意を払わないのと同じである。そんなところに[今日理想であるかのように言われる]個性なんて生まれるのかね?まるで羊水から出られない中毒患者たちだ。それを見て必死に自分は違うと曲学阿世な意見を言ってみたり、外側で差異を主張することに躍起になる。「普通」という[空洞の]テーゼと真逆のアンチテーゼだけが罷り通る。
※
要するに、無意識的な同一化傾向に気付き、「普通」を(鵜呑みにするのでも否定すしきるのでもなく)相対的なものとして見る姿勢がなければ、おそらく個性と言うものは生まれえない、ということである。それなしに生まれるのは、個性ではなく「甘え」と無様な自己主張だけだろう(「個性の尊重と説明能力の欠如の関係」)。
<共感とファジー>
感情や感覚は「あえて」ファジーなままにしておかれる。なぜかと言えば、そのファジーさゆえに「共感」できるからだ。明らかにすればするほど特殊具体性が浮き彫りになって、「同じであるという幻想」を共有できなくなってしまう。だから何も突き詰めようとしない。これが「共感」にまつわるカラクリである。もっとも、この態度が絶対的に悪とするのなら、それは行きすぎだろう。たとえばその幻想が無用な諍いを止めることもあるだろうし、団結力に繋がることもある。親和性の強かった昔なら、たとえファジーな言葉であろがそこに比較的誤差は少なかったのかもしれない(※)。
※
ただし、そのような親和性なるものが異分子(アウトローや今日で言う精神病患者たち)の隠蔽によって成立している可能性を考慮しないわけにはいかない。もしそこに注意を払わなければ、我々は過去の「普通」を鵜呑みにし、その暴力を無意識に行使することになるだろう(過去の人間が「何を普通と見なしたのか」は非常に重要だが…)。
<「普通」という名の暴力>
しかし、価値観が多様化すればするほど、ファジーさに基づく共感なる幻想が通用しなくなるのは自明の理だ。いや通用しなくなるどころではない。それが勝手な期待や押しつけを招き、かつ相手を理解しようとする姿勢を減退させさえするだろう(言葉の多様性、「おもしろい」とは何か?)
<理解と共感の原点>
『追跡者ストーカー』という本の後書きに出てきた「理解はできる(共感ではない)」が理解と共感の差異を意識し始めたきっかけ…どう違うのか?理解=言葉どわかる、共感=感覚でわかる。でも感覚でわかるつったって、結局相手の言葉を聞いて考えてんだから理解なんじゃねえの(理解はできるが納得はできない、てんならまだわかるが)?じゃあ共感ってそもそもありえるの?[その虚構性については既に説明したとおりである]
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