ここでは「灰羽連盟:舞台設定、偶然性、実存」の続きとして、灰羽連盟(以下「灰羽」)において中心をなす実存に関する描写が違和感なく受け入れられた要因について述べていくが、その前に前回の要約を簡単にしておこう。
前回、私はwonderingの歌詞や修道院を思わせる灰羽の掟からその宗教的な要素を指摘した上で、タバコやバイクといったステレオタイプを回避するようなアイテム、さらには生々しい羽の生えるシーンなどが巧みに配置されることにより、ある特定の世界観(宗教観)を押しつけられている感じがしない、ということを指摘した。少し付け加えるなら、そのことによって(宗教的な)求道のストイックさよりは生活臭の方が前面に出るため、「色々あっても支え合いながら生きていこう」というようなたくましさが強調され、説教臭さ(押しつけがましさ)を感じないのであろうと思われる。
では、実存に関する描写が、作者の危惧したように「青臭い」などと思われることなく、受け入れられたのはなぜだろうか(もちろん、クウの「巣立ち」に対するラッカの反応が極端すぎだといった反応はありうるが、それについては後述する)。これも宗教的という違和感が回避されたのと同じように、いくつかの明確な要因があると考えられる。
まず一つは、先にも触れた生活臭である(古着、労働、部屋探しetc...)。このため、「自分たちは何者なのか」という問いが出てきても、実生活からそれほど遊離した感じがしない。二つ目は、主に4話でクローズアップされる「労働」と「自立」の話だ。クウとのやり取りなどを通じて鳥に親近感を持ったラッカは、ベランダにエサを置くようにしたのだが、エサの箱を目の前でカナに捨てられる。この後、ゴミ捨ての時にカラスの対策としてカラスの好むものだけ別にすればいいのでは、と提案するが、カナをそれを批判して大要次のように言う。「餌付けされ、街に住みついて二度と飛ばなくなるのは幸せかもしれないけれど、それはかわいそうだ」と。この発言があった時点では、先のエサの捨て方や少々乱暴にも見える追い払い方もあって唐突・極端な印象を受けるが、これは後のやり取りの中に出てくる「灰羽は街に守られている」「だから仕事をする」というカナの考え方と連動しており、灰羽たちの特徴・描き方として極めて重要な発言である。というのも、これによって灰羽の世界は単に温かいものではなく、灰羽もまた単に守られている牧歌的な存在などではないことが視聴者に印象付けられ、後に顕在化する実存の問題の生々しさが際立つからだ(簡単に言えば、暇をかこつがゆえに実存などという生活から遊離したことであれこれ思い悩む存在とは違う、ということ)。
しかし決定的に重要なのは、灰羽の世界に関して灰羽たちにはもちろん視聴者に対しても極めて限られた情報しか与えられていないことにあると思われる。具体的に説明していこう。「灰羽連盟」という虚構を見ている視聴者にとっては言うまでもないが、「わたしたち、人間じゃないの?」「私たちが何物なのかは誰にも分からない」「うちに・・・かえりたい」というラッカとレキのやり取りからもわかるように、作中人物たちにとっても自明でないものとして描かれている。そしてまた、最後の最後まで世界の成り立ちや「巣立ち」の理屈、トーガの正体などは説明されないままであるため、与えられている情報のレベルに関して視聴者と作中人物にほとんどズレが出ないようにされている。つまりは、始めから終わりまで作中人物たちと同じ視点で試聴者が見れるように作られているのだ。このような描き方ゆえに壁を越えようとするレキに象徴されるような世界の外側を求める行為や、古い書物を読むネムに象徴されるような世界の成り立ちを探究する行為、あるいはレキやラッカが「巣立ち」に衝撃を受ける様を違和感なく受け入れられるのではないだろうか(ただ、ここでもう一つ驚くべきは、先の生活臭の話とも絡むが、壁の外側を調べようとして果たせなかった=実存の探究を放棄したスミカの幸せそうな、かつあっけらかんとした姿を自然に描くバランス感覚である)。逆に言えば、もし世界の成り立ちが説明(意味付け)されていたら、私たちはいわゆる「神の視点」から灰羽の世界を単にそういうものとして無害化(パッケージ化)して捉えてしまっていたに違いない。繰り返しになるが、前述のような仕方でそれを回避したことにより灰羽の世界は根源的に未規定なものとして立ち現われ、ゆえに灰羽たちの実存の希求は生々しさを失わず、私たちを引き付けるのではないだろうか。
これらが、実存という灰羽のテーマが違和感なく受け入れられた要因だと考えられる。
ところで、以上のことをもって(同一化という意味で)「共感」もしくは「感情移入」の演出が巧みであるがゆえに、灰羽の実存の描写は成功したのだと理解する人がいるかもしれない。なるほど確かにそういう要素は無視できないが、それだけでは灰羽という存在に関する設定の重要性を見落としてしまうことになる。かつて「『巣立ち』の衝撃」でも書いてはいるが、もう一度確認しておこう。「灰羽」とは、前の世界の記憶を断片的に持っていることやすでにある程度の年齢であることからすれば、記憶喪失の人間に似たところがある。記憶喪失の人間は、基本的に記憶を取り戻そうとするものとして描かれているが、そこでは記憶に辿りつくことは基本的に善いこととされる(もっとも、それを前提にした上で元の記憶という名の真実に辿りつくことは本当に善いことなのか?といった方向性で描かれている作品も存在する。例えば「腐り姫」、「バニラ・スカイ」など)。そのような作品群では真実ないしヒントを教えてくれる存在も同時に現れるようになっているが、先のラッカとレキのやり取りからもわかるように灰羽はそれと対照的である(話師はどうか?と思うかもしれないが、そもそも自らの天命(?)を知り得なかったがゆえに灰羽の世界に取り残された存在が、真実を語りえるはずもない)。以上のような前提をふまえて想像してほしいのだが、もしそういう存在が、誰からもその来歴を教えてもらえず、自らの異質さを周囲も自分も認識している状況に置かれたとしたら、その寄る辺なさはいかばかりだろうか?灰羽が人間とは違うということ、そしてそれに起因する不安は本編で繰り返し描かれているわけだが、そういった状況を考慮すると、少なくとも私は、視聴者と灰羽が同じ視点になるように描かれているからといってその心持ちに同一化できるなどと言う気にはなれない(「極限状況での振舞い」など)。記憶がない、認識能力やかつて培ったらしい能力だけはある(これは今いる世界の非自明性を意識させる)、世界が自明ではなく、その成り立ちもわからない、そしていつ消えるかわからない・・・・といった設定を足がかりに、ただその不安の大きさを慮るだけだ。
このような視点に立てば、クウの「巣立ち」に対するラッカのやや極端にも見える反応を理解することはたやすい(そもそもクウがクローズアップされた話でそのまま「巣立」ってしまっているので、視聴者の側に準備ができておらず、それを極端だと感じるのは必ずしも不自然ではない)。最初に挙げた生活臭という要素、また実存の探究を諦めたスミカの扱い方からすれば、繰り返しになるが、たとえ灰羽が先に述べたような不安を抱えていようとも、「でも現に私たちはこうして生きている」という事実性に基づいた確信と前に進んでいこうとする強さを、支え合いながら獲得していくはずだった。しかしラッカに関して言えば、その土台が構築される前にクウが「巣立」ってしまった。これに加え、気を遣いすぎる、あるいは感受性の強すぎるような性格(描写)が加われば、あのように憔悴することもさして不思議ではないと言えるだろう(その後について言えば、さらに「罪憑き」という障害が加わるわけだが)。
以上のことより結論。
特に世界の描き方と灰羽の設定によって、様々な意味で何らかの価値観を押し付けられたという印象が薄く、またそれゆえに作中人物たちの行動にそれほど違和感がなく、事によっては自分もまたそうする(なる)であろうという納得の得られる作りになっている。これこそ、実存というテーマが「青臭い」といった形で敬遠・否定されずに受け入れられた最大の要因だと考えられるのである。
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