等々力渓谷へ ~自然と理想~

2008-07-03 23:39:56 | ぶらり旅
今日は等々力渓谷に行ってきた。


この地名との出会いは二年前に逆上る。仕事でこの地名と遭遇した時、「とうとうりき」、いや「ととりき」…?と読み方がわからず、辞書で調べたのが発端だった。それ以来頭の片隅にはあったが、特に訪れるような理由もなく、今に到っていた。しかし、この前帰省した時に見たテレビで等々力渓谷の話が出てきたため、じゃあちょっくら行ってみようかという気になったのだ。


そこで渋谷から東急に乗り込んだはいいが、自由が丘での急行に乗り換えてしまい、二子玉川駅まで行ってしまった。さっそく乗り換えようとしたが、この駅から見える景色もいいなあ。やっぱり川はいい、と再確認し、等々力へ戻る。上野毛駅を通過。そう言えば、前に野毛を「ノモウ」と読んで笑われたことがあったなあ。小学校時代から大安を「ダイアン」(お笑いか)、金時を「キンジ」(遠山…?)、大牟田を「オオベンタ」(牟⇒弁)など漢字音痴は治らない…とまあそれはさておき、等々力駅に到着しましたよ、と。


てゆうかこの何ともロオカルな町並みがスゴイよいね。踏切おねいさんがいるあたりも激萌え。意識した作りの結果なのか逆に違和感を感じた三ノ輪橋駅より全然こっちの方がいい。ゆったりした時間の流れを堪能しつつ、渓谷の入り口へ向かう。へえ、意外と小じんまりとしているのね。ただまあ涼しいし落ち着くような感じがするのは確かだ。周囲の木が視覚的に、川の音が聴覚的に外界を遮断しているので、それほど深く分け入っているわけでなくても異界にいるような気分になるのだろう。


途中の庭園に入ってしばらくぼけーっとした後先に進む。大木を見たりしながら色々考えたりしていると[※]、渓谷は突然終わった。出口付近の休憩所で当時の写真を見て、冬の等々力に興味がわいた。今日はデジカメを持ってこなかったこともあるし、秋と冬にはまた来ねばなるまい。


そこからすぐに引き返してもよかったんだが、せっかくなんでと川沿いにずんずん進んでみる。この昭和40年代な感じのする(てきとー)ロオカルな雰囲気たまんねえな、とか考えながらふらふら歩いてたら多摩川に到着。こうなったら行くところまで行くんべえか、と河川敷に進出してドカっと座り込む。そう言えば昔多摩川にメガネが流れてしまったことがあったことを思い出しつつ、反省だけなら猿でもできるというCMを想起しつつ、さっき出てきた問題を30分くらい考え、ある程度結論が固まったので帰ることにした。


最後は駅前の店でイタリアンジェラートのダブルを食らい、電車に乗る。踏切おねいさんが踏切じいさんになっていてちょっとヘコんだ。さて、家に着くまで五反田で買った吉田戦車を読むとしようか…


[※]
以下はそのおおまかな内容。
俺、私という人称の使い分け、対話形式…表現というのは内容だけでなくその方法で色々なものを表しうる。しかしそれらは、すでに出尽くしているだろう。ならば、表面的な装いの方法ではなく、根本にある内容の部分をこそ拘るべきでだ(もっとも、目新しさがないことと有効性の消滅は必ずしもイコールではない)。

そんなことを考えつつ階段を下りると、右手に大木があった。
そう、表面的なものではなく、何物にも動じないこの大木のようなあり方が大事なのだ…いや、ちょっと待て。よくよく考えてみるとそれはおかしくないか。本当にこの大木は何物にも動じていないのだろうか?それは表面上そう見えるだけで、実際には風雨に耐えるなどの営みの中で生きているのは言うまでも無い。比喩というものがイメージに強く依存することは理解できるにしても、いや逆に理解できるからこそ、そのイメージの虚構性をここで考えないわけにはいかない。今自分は、この大木を不変、ないしは平静のアナロジーとして持ち出した。しかし、超然としているように見えるものも、他の存在との関係性から独立しているわけではない(風雨に浸食される岩、変化する大河の流れ)。それらを不変・平静のようにみなすのは、その現実を無視している。

もう少し視点を変えてみよう。「私は貝になりたい」なる映画・ドラマを知っている人もいるかもしれないが、さて貝になった先に平安はあるのだろうか?もちろん、この発言が人間に使役されたくないという文脈の中で出てきたことに注意する必要はある。その視点から行くと、深海の貝というのは何物にも影響されない平安の中にいる生き物の如く思われるかもしれない。しかし実際には、あらゆる他者(自然)の中に存在しているのであり、そこにはやはり常に死が貼り付いているのである。

このように自然の立場に立って少しでも考えたなら、自然に理想的状態を求めるような言説が、相手に寄り添っているようで、いかに恣意的なものか理解できるだろう。そこでは仮託しようとするものと他者(他の自然)との関係性は等閑視され、その一方で自分の理想が押し付けられていのだ。しかし実際のところ、自然物の中に、おそらく期待されているであろう「心の平静」などというものは存在しないのである(もし本当にそれを求めるなら、ロボトミー手術でもした方がよいだろう)。

このような仮託は、「感情移入」・共感の恣意性にも繋がってくる。安易に他者へ自己を仮託する勿れ。安易に他者を理想として持ち上げる勿れ。
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