ひぐらしと「ルール」:誤読と批判の必然性~うみねこへの道~

2008-07-04 01:41:10 | ひぐらし
※この記事は「ひぐらし:推理・物語としての破綻」を改訂したものです。


前回の「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」では、ひぐらしの真相が推理で到れない内容であること、そして仮にたどり着いたとしても証明不可能であることを指摘しました。そしてさらに、証明不可能であるにもかかわらず国家陰謀説を主張する場合、それはまさに症候群的であり、そのような形でなければ到れない真相というのは、疑いを避けて症候群を免れるという本編のテーマと矛盾するのではないか、と述べました。


その内容を見て提示される反論(もしくは疑問)は、主に以下の二つに集約されると思います。すなわち、

1.そもそも作者はそのような推理を望んでいない
2.話の内容は納得できるが、それなら筆者(ポヘ)の奇跡を肯定的に評価するような記事と矛盾していないか?

答えは簡単です。
「国家レベルの集団の暗躍を推理しなければならない」という解釈自体が、今となっては明らかな誤読であることが明示されているから。
とはいえ、これだけだとまだ疑問も多いでしょうから、もう少し詳しく説明していきます。


まず1からいきましょう。
指摘の通り、「症候群的な(誇大妄想的)発想で真相に到ってください。ただし、症候群自体は避けるべきものです」という(前回も指摘した)自己矛盾的な要求は、作者の本意ではありません。それでも、誤読(=作者の意図に反する読み)と知った上で批判を展開しているのは、その読み方に強い必然性があるからです。その必然性、つまりは証明などを必要とする掲示板の性質だとか、お疲れ様会の「人為VSオカルト」でも煽られているように推理の枠組みから考察する必要があった…などの話は「メガロマニア~」で既述の通りなので繰り返しませんが、そういった誤読の必然性を残したまま、誤読・批判が出てくれば「実はルールを推理してほしかった」と言うのがおかしい、と批判しているのです。


誤読などいかなる作品にも生まれてしまう、それはもちろんその通りです。また、推理の要素が強いためミスリードを各所に入れる必然性もわかります。しかしながら、数多くのミスリードが仕込まれているからこそ、「ルールの推理こそが要求されている」という客観的な証拠が必要なのです。例えば、推理小説を読んでいるときのことを考えてほしいのですが、そこでは動機や手口も合わせて考えるのが一般的だと思います(ひぐらしが推理要素を多く含むものだったことは「最初から…だったは成立するか」を参照)。ゆえに、「ルールの推理」を根拠付ける客観的な証拠がなければ、例えば「手口とか何でもありじゃないか」といった批判の方にこそ説得力があります(作者の言い分こそ結果論に過ぎない)。


そのような状況になってしまうことを作者は予想できなかったのでしょうか?正確に知ることはもちろんできませんが、作者が公式掲示板にまで出てきてわざわざ製作日記と同じ内容のこと(=ルールをこそ推理してほしい)を困惑気味に書いていたあたり、事態を甘く見積もっていたことは確かだと思います。


以上と「メガロマニア~」の内容をまとめると、

1.作者が求めるルールの推理(という読み方)は証明不可能なものであった
2.それゆえプレイヤーは手口や動機を考えるのが当たり前だが、そのことについて作者の意識が低かった
3.そうして生まれた誤読の内容は、むしろプレイヤー達に症候群的たることを要求する、つまりテーマ的自己矛盾を招くフェータルなものだった



の三点に批判を集約できます。ただ、逆に言えば、1の部分をしっかりしてさえいれば、つまり作者がルール推理の要求を上手い具合に埋め込んでいたなら、誤読はまんまとミスリードにひっかかった人間達の怨嗟にしかならず、むしろ皆殺し編(あるいはひぐらし全体)への厳しい批判のほとんどは、圧倒的な賛辞にさえなっていたことは間違いありません。そしてそういった失敗の経験があるからこそ、現在のうみねこでは作中でも「ルール」が度々問題にされているわけです。


最後に、2へ回答しておきましょう。
いくら必然性があるとはいえ、そして納得したわけではないとはいえ、推理・物語的破綻が誤読の結果であることは今や明らかなことです。それゆえ、今では作者の要求する視点をある程度理解しているため肯定的な評価もできるわけです(なお、必然性の欠落への批判と作者の意図については、例えば鬼隠し編ラストを巡る「私は鬼隠し編のラストを受け入れない」と「友情が生む奇跡と惨劇」を参照)。


これから先、「推理の枠組みから考える必要がある」だとか「証明を要求する掲示板の性質」といった視点による批判を理解できない人はますます増えていくでしょう。しかし、ひぐらしが数ヶ月に一本を発表するという形式であった以上、こういった通時的な視点を抜きにしてひぐらしを評価することも批判することもできないのです。ゆえに今回、たとえ誤読だとわかっていても、それが必然的であったことなどをこうして改めて提示することにしたわけです。


さて、次は最後の澪尽し編になります。まずは覚書を載せて、次に○○の扱いという厄介な問題について述べていくことにしましょう。

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