二「膠」対立からの脱却

2017-11-20 12:24:24 | 感想など

前にも書いたことだが、性善説や性悪説と聞くと、実に頭が悪いと私は感じる。というのは、それらでしばしば提示される事例自体はありえるとしても、それらが(他の事例に先んじて)人間の「本質」であるという根拠は何もなく、単なる信仰告白にしか思えないからだ(「酸素がないと人間は生きられない」であるとか、「心臓が止まると死ぬ」といったテーゼと同等の地位を得ることはない)。無数の事例を虚心に見れば要するに人次第・状況次第であって、極限状況になれば人肉を食らうことだってあるし、信頼をしていれていた仲間を裏切るばかりか全てを押し付けて逃走することだってある一方、同じ状況で自らの命を投げうって他者を助けることもありうるわけだ(後者でさえ、嫌であるにもかかわらず倫理観や使命感で無理に抑えつけて自己犠牲に及ぶとは限らず、むしろ内的な衝動からそうすることがありうるという点において、「やはり利己的なのが人間の本質なのだ」と必ずしも言い切れない)。

 

加えて、マックス=ウェーバーを参照するまでもなく、善意が悪しき結果(他人から悪行に見えることすらある)を生み出すことなど政治に限らず歴史的にいくらでも有り得る以上は、この複雑化して共通前提が増々通じなくなってきている社会で人間が本質的に善とか悪だなどという見解に、その人を縛るprejuduce以上のどんな効果があるのか私には全く理解できない(まあ逆に言えば、それでも人がそのようなものに拘泥してきた歴史がある以上、私は人工知能の発達によってそれがどう変わるのか、あるいはそれらが実際に破壊されていって人が無意味さを悟った時、人間社会がどのようなものに変容するのかに強い興味もあるのだが)。

 

とまあそう言うわけで、「人間とは~だ」などというドグマから演繹的にモノを考える行動するのではなく、実際の人間の行動類型を集積して分類して行動に生かしたり、あるいは人が追い詰められる過程や追い詰められた時の行動パターンを生ー権力的に理解して立ち回るべきだと思うわけである(要するにプラトン的なエートスではなく、アリストテレス的なエートスが必要ではないか、ということ)。

 

これと同様に、主意主義―主知主義もそうである。前者は右翼的エートス、後者は左翼的エートスと関連が深いとも言われるが、要するに前者は人の理性を信頼せず感情・感性(ある種のコモンセンス)を準拠枠とするがゆえに漸進主義的となりやすく、後者は人間理性に信頼を置くがゆえにそれに基づいた革新主義的な方向に行きやすい(好例がフランス革命)とされる。少なくない「論者」という名のspeakerたちが全くそういった枠を認識せずおしゃべりしてる以上、そういった背景を整理すること自体は有用であろう。

 

しかし、それらを明確な軸として設定するのは愚の骨頂であるように思われる。たとえば主意主義。そもそもグローバル化・ボーダーレス化した今日、アダム=スミスが「道徳感情論」を書いた時代とは大きな懸隔があるために、感情・感性に基づいたコモンセンスに信頼を置くことは、一つの判断基準としてならともかくとしても、極めて難しくなってきている(まあその感情的反発の一つが移民排斥だったりするわけだが)。加えて、ネット社会化によって加速したこと・可視化されたことは、人は簡単に「釣る」ことができるということである(ここではFake newsやalternative factを例に挙げれば十分だろう)。いくら膨大な情報が参照できるとは言っても、時間もなければ内発性も知識もなく、加えて極めて選択的に情報に触れられるツールができた今日、狂った言説でもやりようによって人を簡単にドライブ・動員できることが明らかになってきている。である以上、そもそも主意主義的なエートスは容易にポピュリズムへと堕すわけで、到底principleになどなりえない(日々様々な情報に触れ、またそれによって社会が構築されている以上、自分が心の底から沸き上がったように思える=アプリオリなものと感ぜられる感情・感覚であっても、様々なものの影響を受けていると考えるのが当然でもあるしね)。

 

では主知主義はどうか?「簡単に感情に流されやすいこんな社会だからこそ、理性をもって行動することが必要だ」というのはいかにも正しそうな意見ではある。しかしそもそも、たとえば現在の社会を批判して生まれたのが共産主義(と革命)であったし、理性をもって行動していった結果がフランス革命であった。それらが数多くの悲喜劇・惨劇を生み出したことは周知の通りであるが、今日的に言えば発展途上国の「合成の誤謬」による行き詰まりのように、理性に基づいた合理的・戦略的行動が善き結果を生み出すことを必ずしも保証しないのは歴史が証明している。あるいは将来を語るならば、何を理念とする社会なのかということが溶解していけば、「理性的」に判断した結果として障がい者の大量殺戮(=相模原事件)を選択をする人間が多数出てくることだって当然あり得るわけである(かつては「非キリスト教≠人間」的意識で大量の先住民や奴隷を使役して殺すといったような行為がまかり通っていたのだから、今後そのような事が起こりえないとは言えない)。要するに、たとえば主知主義=理性的=リベラリズム的な図式で見ることも全く自明ではないのだ(そもそも、「自然権」は別に理性の産物でも何でもなく、紆余曲折の末に成立した擬制でしかない)・・・ということに思い至れば、主知主義もやはり恒常的に正しき準拠枠となりえないのは容易に理解されるだろう。

  

以上見てきたように、主意主義も主知主義も、視点としては重要だが、定言命法として常に立ち返ることのできる真理などでは全くないのである。同じ国家の中でも遠くの人間を仲間と思うことなどできない、という現象はユーゴスラヴィアの解体、スコットランドやカタルーニャの独立運動といった形で立ち現れてきており(あるいはEU離脱や都市と地方の対立もそうだ)、それは兵士の派遣に代わるドローンによる攻撃(=他国の見知らぬ人のために命などかけない)、普遍的人道主義=リベラリズムの限界(移民排斥など)といったことにも表れ始めている(なお我が国においては、国家という抽象的な意識だけが独り歩きしており、共同体の解体もあってそのレベルでの相互扶助意識が希薄で、リベラルナショナリズム的視点も当然弱いために、弱者は捨て置けという話になりやすく、福祉の議論が社会の存続よりただのパイの取り合いのような様相を呈してくるという不毛な状況にあるように思われる)。そういった状態においては、ある特定の視点でものを見るのではなく、諸要素を踏まえながら、是々非々で判断していくしか方法がないだろう。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-11-20 21:32:44
もし知った上であったなら恐縮なのですが、性善説も性悪説も

人間はもともと善い心を持ってはいるが、学ばなければそれはくすんでしまう。だから学んで良く生きなければならない。

悪い心を持っているから、学んで善く生きなければならない。

と言った具合に両者方法と結論は変わらず、善悪を決して固定化される性質では無いとする考え方なのです。

ゆえにもし孔子や荀子へ、題意をもとに君の思想はナンセンスだ。と言ったとすれば、「もっと学べ」と反論する事でしょう。
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Unknown (ムッカー)
2017-11-22 11:14:14
コメントありがとうございます。

ご指摘は、要するに性善説も性悪説も、人を学びへと至らしめるための方便的なもの(合目的的に選択された言説)であって、そのスタートラインの設定の正しさに拘泥しているわけではない、というものだと理解しました。おっしゃる通りで、それは性善説を継承した朱熹の「性即理」にも表れています(まあ同じ性善説的視点でも、陽明学は「心即理」や「童心説」など学びによる陶冶という発想とは異なるスタンスを取っていますが)。

自分の記事を見返してみるに、主意主義や主知主義に関してはその立ち位置と社会的な表れに言及して機能主義的なものとしては有効だと述べる一方、性善説・性悪説についてはその無効性あるいはナイーブさを批判するだけで、その意図するものや機能主義的効果には全く言及していないという意味で不当な批判になっていると感じました。

意図としては、人間の本質は須らく善であると考えて行動してしまうことも、あるいはその反対もその本質論が無根拠である以上愚かだと述べたかったわけですが、それであれば「性善説」・「性悪説」という用語を使う上で注釈が必要であったと反省しています。

ご指摘いただいたことによって、自分の記事を見返し、不備な点に気づくよい機会となりました。ありがとうございました。
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