社会のモナド化(って言い方もいい加減古いなw)と絡む承認の枯渇、そして経済的地盤沈下による実生活の不安・困窮から治安の悪化という話を「それを『常識』とする根拠は、もはやどこにもない」と「ルサンチマンのハレーション:昭和維新、そして現代」で書いた。
まああまりにシビアな話ばかりするのもね、ということで過去記事復活の遊びをして次の話題に・・・と思っていたところ、ちょうどよい動画を見たので掲載してみた。
詳しくは動画を見ていただきたいが、宮台の言う「言葉の自動機械」や「法の奴隷」といった特性については、次の毒書会に向けて読んでいる『ホモ・ルーデンス』で描かれる「遊び」(日本で遊びと言うと、どうしても「遊戯」・「余剰」の響きが強くなると思うので、私は一貫してカッコつきで表記する)との対比という点でも非常に興味深いところである。
読了してない段階で詳細を書くつもりはないが、そこで示される「遊び」の概念は「ゲーム」・「擬制」・「共通前提」など様々に言い換えうる非常に豊かな内実を持っている(現代日本の例としては、時に外交などで隠語として使われる「プロレス」を連想されたい)。これを前提にすると、先に述べた「言葉の自動機械」などは、相手との前提を構築しようともせず、ただ言葉にオートマティックに反応しているだけという意味で、極めて対照的なものと言える。
具体的には、モナド化による承認の枯渇と、経済や人間関係などの不安から、相手と前提を構築して対話・思考するのではなく、それこそ不安神経症的にある言葉や対象へ激烈な反応をし、鬱憤を晴らして不安を埋め合わせているのである(これはトランプ現象やブレグジットを見てもわかるように、日本だけに限った話ではない。なお、この背景には中間層の崩壊があるが、その点はポン=ジュノの「パラサイト」に関する町山智浩の解説が、米英日韓の貧困率などにも触れており興味深い)。
こう聞けば、「日本もイギリスの孤独担当相じゃないけど、包摂機能を強化するべきじゃないか」という提案をする人もいるだろうし、それを間違っているとは思わないが、多分無理である。というのは、皆さまよくご存じのように、日本という社会は実力主義・個人主義のアメリカも青ざめるほど、「政府に助けてもらうことをよしとしない」人の割合が多く、それを如実に反映するように、何かあればすぐに自己責任論が唱えられる状況だからだ。
私はそれを見て、個人主義というよりは孤人主義であり、国家や社会を騙りながら、実際には社会が繋がっている感覚の欠落はmeismの極致を思わせるなあと考えたりする(自分のことにしか興味がないと語る人間が他人のことを気にしないのは筋が通っているが、国家や社会を散々語ったり憂いたりしながら、自分にも関連しうる貧困問題→出生率低下・研究費削減とイノベーション停滞・貧困と治安悪化について自己責任で済ませるのは、どう考えても社会的マインドが薄弱だとしか思えないので。まあそういう乖離からわかるのは、そういう国家や社会語りが、つまるところ大きなものを語っていることで己を大きく見せたいという自己顕示欲の産物でしかない、という事実なのだが)。
ともあれ、こういう状況を鑑みると、特に日本においてはセーフティネットを充実させることに対し負の斥力が大きすぎる。これを踏まえれば、宮台が動画の中で語っているし私もしばしば言及しているように、「薬物で不全感をコントロールする」システムを普及させるしかない(てゆうのが半分ネタで書いてる「VRテンガ」の話なわけ。ちなみにここまで極端な話じゃないが、生ー権力的コントロールはフーコーやドゥルーズなども話してることで別に目新しいことでも何でもない。ちなみにこれを聞いてクレイジーだって思う人が多くいる想定で私は書いているのであり、嫌悪感・忌避感があるならちゃんと実現可能なオルタナティブを考えろよ、という話である)。
それが嫌だと言うなら、中国並の監視社会化(顔認証システムの完備etc)を成し遂げた上で、捕まってもいい・死んでもいいという「無敵の人」に対抗するために
こんな感じで武装でもしますかい(まあ自分が先に捕まるわなw)?あるいは全部車移動にするとか?しかし子どもはどうする??・・・って考えればわかるように、超監視社会=パーフェクトプラン!!じゃあないわけですわ。
ともあれ、しばしば私が思うのは、みんなまだまだ絶望も危機感も足りないなーということなので、加速主義にてabgrund(©帰ってきた総統閣下)を目の当たりにするしかないんじゃね?と思う今日この頃である。
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