(状況)
朝、寝ている女の子(仮にAとする)を起こすもう一人の女の子(仮にBとする)。もっそりと起きたAは着替えなどのために洗面台へ。一方、すでに着替えも終わっているBはベランダに置いてある鳥のエサを見つける。準備が終わり戻ってくるA。
BはAに「これを置いたのはA?」と尋ねる。「うん。鳥が食べるかと思って」とうなずくA。Bは「ダメだよ、カラスが集まってきちゃう。ただでさえゴミを散らかされて困ってんのに」と言ながらBはエサをゴミ箱に捨てる。Aは傷つき、少し憮然とする。反論の言葉が出かかるが、Bはお構いなしに「そうだ、ゴミ。キッチンのゴミを出しちゃおう」とAに言ってキッチンへ向かう。言葉の接ぎ穂を失い頬を膨らますA。
(問題)
このBの行動は合理的か否か。
(答えがあるわけではありません。また、追加できる事項もいくつかあるのですが、今はあえて載せないことにします。抽象的な方が思想・思考を投影できる余地が大きいと思いますので。)
朝、寝ている女の子(仮にAとする)を起こすもう一人の女の子(仮にBとする)。もっそりと起きたAは着替えなどのために洗面台へ。一方、すでに着替えも終わっているBはベランダに置いてある鳥のエサを見つける。準備が終わり戻ってくるA。
BはAに「これを置いたのはA?」と尋ねる。「うん。鳥が食べるかと思って」とうなずくA。Bは「ダメだよ、カラスが集まってきちゃう。ただでさえゴミを散らかされて困ってんのに」と言ながらBはエサをゴミ箱に捨てる。Aは傷つき、少し憮然とする。反論の言葉が出かかるが、Bはお構いなしに「そうだ、ゴミ。キッチンのゴミを出しちゃおう」とAに言ってキッチンへ向かう。言葉の接ぎ穂を失い頬を膨らますA。
(問題)
このBの行動は合理的か否か。
(答えがあるわけではありません。また、追加できる事項もいくつかあるのですが、今はあえて載せないことにします。抽象的な方が思想・思考を投影できる余地が大きいと思いますので。)
Aは子供、Bは大人な人だね。どっちが悪いということは無いが。
Aのようにありたいが、現実はそれを許さずB。
わしと元カノの関係に近い(笑)
「合理的」ということを問うこの問題の主眼は、「目の前でエサを捨てることは合理的か?」ということなのですが、言葉が足りなかったようです。すいません。
BにとってはAが傷つくことを知らずして行っているので少なくともその場では合理的な行動である(①)。
後にAが傷ついたことを知って後悔するのならば非合理的なことであったと修正するであろう(②)。
一方Aにとっては自分の思惑と反することをBになされたわけで、Bの行動は非合理的であった(③)。
しかし時間がたって落ち着いてから、自分がカラスのことに考えが及んでいなかった、と気付いてAの行動を認めたならば合理的なことであったと後付で納得するであろう(④)。
これらを時間的流れの中で考えてみたい。
①と③の組み合わせのときはBは納得するがAは納得しないので非合理的。①と④ならばA、Bともに納得なので合理的。同様に②+③=非合理、②+④=非合理となる。
すなわち、この出来事を外から眺めた場合、双方の納得するタイミングにのみ、この出来事を合理的とみなすことができるといえる。
ただし、双方が言語による意思伝達の末、合意を得たのであれば、いかなるタイミングであれ合理的となる。
以上、感情論からの結論ですター。
【発言・行動・物質面から】
状況が不明であるがこの場を学生の二人暮しと考えるならば、「これを置いたのはA?」
と尋ねるのは非合理的なことである。自分がしたのでなければAがしたことであるのは明白であるからだ。
次の「ダメだよ、カラスが集まってきちゃう。ただでさえゴミを散らかされて困ってんのに」ついて考えたい。餌を捨てる理由を明言したのは、相手に納得させるために必要な発言であり合理的であったといえる。しかし、相手の反応を確認せずに行動を起こしてしまった点は若干合理性を欠いていたといえる。
しかし、後にAにこの言葉を想起させ、頭の中で納得させてBの行動の正しさをより印象付けるための戦略的発言であると自認してのことであるならば、合理的と捉えることもできる。
問題のエサを捨てた行為は、カラスが集まってゴミを散らかされ、それをBが綺麗に片付けなければならなくなる、という事態を防止するための行動としては合理的である。
しかし、生物のエサして利用できるものをゴミとして焼却処分に帰する行為は自然界に
負担をかける可能性があるためエコロジーの観点からは合理的とはいえない。
最後の「そうだ、ゴミ。キッチンのゴミを出しちゃおう」という発言は誰に向かっていっているわけでもなく、無駄に体力を消耗するだけなので不合理といえる。
【最後に】
合理的なコトというのは、個人や各個人が属する社会等が、ある目的のためのある行動が最小のコストで行われると認識できる事象を指すものであると私は考えている。
近現代では特に物質面に重きを置いた合理化が図られたために、感情面との乖離が発生し、問題がおきることがあるようだ。近年見られるようになった未解明な様々な精神障害もそうした一端なのかもしれない。
何はともあれ、やらねばならないことがあるのにやたらと長文コメントをしていることがもっとも不合理的なことかもしれない。この記述により自己の思考がより明確になり今後の行動に有利に?働くということを認識していれば合理的なのであるが。
長文失礼いたしました。誤字脱字ご勘弁を。
今回提示したのは、「理」というのが必ずしも感情を排した散文的なものとは限らないのではないか?人との関係や周囲に合わせることも合理的たりうるのではないか?というものでした。
その意味では、自らの行動を相手がどう受け取ったか、さらにそこから自分はどう感じたかで、合理的か否かという(特に)内在的評価が変動するというJガイル氏の着眼・意見には全く賛成です。
ただ、「この出来事を外から眺めた場合、双方の納得するタイミングにのみ、この出来事を合理的とみなすことができるといえる。」
という意見にはちょっと反論があります。仮に双方が納得しえないとしても、それはAの「合理的」とBの「合理的」が並列しているということになるのではないでしょうか。もっともJガイルさんが、その「二つの『合理的』が衝突しているという状況」を、外側からは非合理的だと評価できるという意味で書かれているのなら、その思考過程は理解できます。
あと細かいところを。エサに関してBがAに質問したことですが、鋭いですね(^^;)というのも、元ネタでは二人暮しではありません。大人数の共同生活なのです。だからこんな発言が出てくるのですね。それと、ゴミ出し発言は、Aに対して発せられたものです。これについては本文を参照ください。
今日、明日あたりに追加情報を載せる予定です。もしよろしければそれも含めてまた考えてみてください。では。