※「今帰仁城跡」の続き
中庭を抜け、周囲を見渡せるところに出た。
ガイドさんによれば、今帰仁城は砦のような様相をしているが、実際には聖域であったらしい
(だから島津氏が攻めてきた時には抵抗らしい抵抗もなく征服された)。沖縄では神の降りてくるところを「御獄(うたき)」と呼ぶそうだが、
城自体も一つの御獄であったとのこと。なお、上の写真は城跡の隣にある山だが、話によるとこれは「国家」規模の御獄だそうで、
その力に預かろうとして城を隣に建てたのではないか、とか何とか(ガイドさんによれば今帰仁城は「地域」レベルの御獄だそうである)。
とはいえ、後に資料館に行くと北山王と中山王が砦のところで戦っている映像(アニメ)が流されるなどしており、ここいらの整合性は不明。
おそらく①資料館の表現の仕方に問題あり(戦っていることをわかりやすくするための演出)、②時代による変遷(北山王時代→統一時代など)
のどっちかだろう。
まあそれはともかく、頂上から見た景色はなかなかすばらしい。
いくつも百合を植えたのに、野生のと違って全然映えない、とガイドさんが嘆いておられました。
住居跡。骨で作った双六などが出土しており、家族ぐるみでの生活だったと推測されるそうな。
ここから見ても海が超キレイです。
下から城を見上げるの図。実は石垣自体は大した高さじゃないんだけど、高台の上に作ってあるため実際より大きく見える。
イングランドの城などと形態が類似しているらしい。言われてみればそんな感じがするわ。
最後に一枚、と。
一通り城の外観と周辺の様子を見たところで内部の御内原(ウーチバル)へと向かう。そこで現れたのが以下の御獄。
「テンチジ」「アマチジ」の表現が目を引く。しかしこれ両方とも「天地神」でねーのか?と疑問に思ったが聞きそびれた。
なお、こんな風に御獄は祠のような感じで転々と存在しており、お祭り(だったか)の時にはお供えをして回り、
しかもそれを持ちかえって食すのだそうな(うろ覚えです。間違ってたらすいません)。
さて御内原に到着。ここは聞得大君を頂点とするノロが生活&祭祀を行う男子禁制の空間(どーでもいいが、
大学の時に行った女人禁制の沖ノ島を思い出した)。270度見渡せるような仕組みになっており、眺めは非常によい。
こんな感じ。なお、海の大半が水色なのはサンゴ礁の影響だが、これが防波堤になってくれるおかげで沖縄は津波の心配がほとんどないんだとか。
またごく一部が青色になっているが、中国などとの貿易に際してサンゴ礁を削ったものらしい。
…とまあこんな感じで堪能させていただきました。その他ノロとユタの違いであるとか砂糖黍汁を飲んでみた話もあるが、
一応説明済みなので割愛。さてその後資料館へ行ったら、こっちもなかなかにでかくて地下まであった。じっくり回ろうかとも思ったが、
この後も色々予定があるのと相方が次に行きたそうだったのでサクッと切り上げて終了。なお、気になる今帰仁の名称については…
と説明があった。なるほど、かつては「いまきじん」と呼ばれていたこともあったのね。
とはいえ、それが「なきじん」になった経緯は相変わらず不明だ。別に音韻論や音声学に詳しいわけじゃないが、
「みやきせん」という古い呼び名も「なきじん」には結びつき難いものがある。まあとりあえず「いまきじん」→「い」が落ちて「まきじん」→「なきじん」
あたりかなあと勝手に想像してみる。でも唇を合わせて発音する「ま」と、舌を上につけることで発音する「な」って近い感じがしないんだけど…
まあここいらは暇があったら調べてみましょ。
というわけで、ずいぶん時間をかけたので急ぎ次なる目的地へ向かうことにした。
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