西郷周辺のぶらり見学を終え、島中央部に向かう右側の道(玉若酢命神社や銚子ダム方面)ではなく左側に車を走らせると、舟小屋群へと到る。
にしても、相変わらず綺麗な景色じゃのう・・・
で、こちらが舟小屋なわけだが・・・かなり傷んでおり、率直に言って現役で使われている感は全くしなかった。人が住んでいないのはもちろん、物置としてもどれくらい機能しているのか疑わしいレベルである🤔
うーん、確かに景色としては最高なんやけどねえ。小屋の作り的にも昔にタイムスリップした感があるし。ただ、これを見てインパクトがあるかと言われると・・・ノーコメントとしておきたい😅
なお、周辺には大きくこそないので、吊り橋型の道がある。
おそらく、船の導線を確保する目的で柱の間隔を広げるため、補強として吊り橋状にしたものと思われる(にしても、二枚目の写真はなんでこんな海面に近いんだろうか?)。
というわけで周辺はサクっと見終わった後、近くに神社を発見したので訪れてみた。
にしても、著名なもの以外にも、ちょっと移動したら何かしらの神社に行き当たるなあ。正確な数字こそ調べたわけではないが、神社の密集度合いは国内有数なんじゃなかろうか?もちろん、高野山など規模の大きい寺の周辺には門前町が形成されて寺院・神社が集中するという現象はあるし、あるいは東京のように防衛用(兵隊駐屯用)の拠点として利用するために多くの寺院・神社が建設されたケースもある(例えば今回の旅では最初に北条軍が集団自決した蓮華寺を訪れたが、そのくらいの集団を収容可能な場所というのが当時それほど多くなかったことを想起したい)。
しかし、いずれの観点でも、離島の隠岐に多くの神社が作られた理由説明にはならないように思える・・・あるいはもしかすると、五島の教会と似た事情なのだろうか?すなわち、今ほど交通網が発達していない状況において、コミュニティごとに神社を設置した結果、物理的には距離が近いが移動の困難な各集落ごとに、神社が設置されたのだ、と。このようにして、現代の様に車などが使えるなら、すぐ行ける場所にまた別の神社があるのが不思議に見える、という状況が現出したのかもしれない。
ともあれ、境内に入ってみると、
ここは釜屋神社というらしい。あまり聞かない名前だが、確か福岡にも同盟の神社があったはず。てことは稲荷神社とかみたいに同系統なのかという気もするが、こちらは祀られているのが菅原道真で(だから学生と結びつけて説明がされている)、福岡のは瀬織津姫命か何かだったはずなので、全く異なっている(なお、この神社があるのは「都万=つま」という場所で、釜屋とは関連性がない)。
これは面妖な・・・まあ由来書を見るに、かつては「天満神社」とか呼ばれていたものを(菅原道真を祀っているのだからそりゃそうだ)、明治初期の神仏分離やら神社の序列整理の際に釜屋神社と改称されたらしいから、祭神との兼ね合いというよりは、当時のお役人とか地元の宮司とかのやり取りの中で、後付け的に決まったと考えた方がよいのだろう。
ま、これは一つ宿題としますかね。
小さな境内なので見学はすぐ終わったが、鳥居越しに見る景色はなかなかに美しい。
さて、のんびりしていたいところだが、まだまだ先は長いので、次なる目的地に向けて、動き出すとしますかね。
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