ひぐらしのなく頃に 業:第10話の感想

2020-12-06 13:05:05 | ひぐらし

今回は比較的早めに第10話を見れたので、早速感想を書いていこうと思う。

 

・大前提として、「祟殺し編と酷似した、し過ぎた」展開

微細なところまではチェックしきれていないが、かなり意図的に祟殺し編と同じ展開が繰り返されている(ただ、梨花が知恵に「あたなに何ができるの?」という趣旨の厳しめな言葉をかける場面や、知恵が鉄平と対峙する場面は皆殺し編だったような気もするが)。

このことを踏まえ、それでも祟殺し編と祟騙し編の差異や、今後それを生み出すと思われる要素について取り上げてみたい。

 

・圭一の祟殺し編の夢

鬼騙し編における鬼隠し編の夢、そして梨花と羽入の会話が暗示するように、これは「祟騙し編は祟殺し編と同じ展開にはならない」ことを示唆していると予測される。少なくとも、圭一自身が鉄平殺しに手を染める可能性は極めて低い。

 

・詩音と沙都子の距離感の違い

これは第9話で描写されたものではあるが、圭一と同じく祭囃し編以前の記憶を継承しているからなのか、詩音は悟史の代わりに沙都子の「姉」たろうとしているようにも見える。

これを踏まえ、祟騙し編の2話分だけを虚心に分析するなら、詩音が鉄平に対し何らかのアクションを起こす可能性が最も高いように思える(ただし、そう確信しきれない理由は次回述べる)。

 

・梨花に様々な感情の揺らぎがあると思しき描写

今回の梨花は、内面に様々な葛藤を抱えているであろうと予想されるカットがあからさまに多く出てくる。これまで梨花は鬼騙し編や綿騙し編の圭一フォロー、あるいは綿騙し編での圭一に対する突き放す(=もうこの世界は終わり)発言というように、旧ひぐらしとは明確に違う行動・言動が見られたのであった。

これに対し、第10話の梨花は旧ひぐらしでやっていた行動・言動の範疇を全く出ていないように思える。なるほど旧ひぐらしで梨花が述懐していた内容によると、鉄平が雛見沢に帰り沙都子を軟禁に近い状態に置くことは、総統に覆すことが難しい案件であった(それこそ皆殺し編のように、村中を動かしてようやく変化が生まれたというレベル)。それを踏まえると、彼女的には「ああ今回の世界も無理っぽいな」と思っている可能性はある。

しかし、繰り返し描写される梨花の表情のアップは、明らかに彼女が「諦めていない」ことを示唆している(諦めたらどういう態度になるかは綿騙し編で見せた通り)。

これらの情報を総合すると、祟騙し編における梨花は、「あえて旧ひぐらしとは違う行動を取らず、世界がどう変化するのか・しないのかを見極めようとしている」のではないかと考えられる。つまり、二つの旧ひぐらしと似ているが異なる話を経験することで、「旧ひぐらしのゲームルール観で今の世界を生き延びようとしても上手くいかない」というメタ構造に彼女が気付き、それを踏まえてこの新しい世界のゲームルールは何かを把握しようとしている姿が、あえて同じ行動を繰り返しつつ、周囲の様子をつぶさに観察する様に表れているのではないだろうか(とすると祟騙し編終了後の話の展開もおおよそ予測がつくわけだが、それは別の記事でEDの件とともに記述する)。

 

・鉄平のキャラクター造形とその予測について思うこと

第9話で粗暴な言動が描写された鉄平は、予想通り祟殺し編と同じような性質のキャラクターであった。私は直接目にしていないのだが、キャラクターの性質がリバーシブルであることを踏まえた「鉄平善人説」なるものもあったらしいが、第9話の描写でそのような予測をするのはいくら何でも無理筋というものであろう。

ここから、「リバーシブル」と「解釈違い」という鬼騙し編と綿騙し編の二つに登場した性質は、あくまで部活メンバー+詩音(+羽入?)に限定できると言えそうだ。まあそもそも、今述べた特徴を全体に適用するのだとしたら、そもそも圭一の両親や大石、富竹や鷹野といった人物にも何かしらの変化が見られないと不自然なのであって、鉄平だけを特殊具体的に善人とするのは根拠がない(鬼騙し編でわざわざシルエットまで描かれたのに悟史不在説を主張するのと同様だ)。

私がここで思い出したのは、ややメタな話で恐縮だが、ひぐらし公式掲示板を見ていた時に思った「壮大な実験場」という特性である。そこでは、「人為説VSオカルト説」が典型だが、なぜ・どういう思考の土台で考察するのかというレベルから土台を固めて開陳する必要があったし(まあ極端な話をすれば中世ヨーロッパの普遍論争ですわw)、また「〇〇善人説」などにいたっては、考察というより「〇〇はいい人だと思いたい」という願望が素朴に表明されることも少なくなかった(「後ろ向きな真実より前向きな嘘」ってのにも繋がりそうですな)。

こういうのを見ていると、私はハンナ=アーレントやその著書である『全体主義の起源』『エルサレムのアイヒマン』を連想する。つまり、人間はどのように思考するのか、どうのように誤った思考を正当化するのか・・・といったテーマである(まあ今風に言えば「正常性バイアス」などの言葉を使った方がピンときやすいか)。

こういう話を書いているのは、そもそも私が宗教偽史、あるいは現在起きている安易な二項対立やレッテル貼りに抗するための複雑性・多様性への着目の強調(それができなければ、人間の行きつく先はアーレント言うところの「反応の束」であり、すなわち「AIの奴隷」一択であろう)からでもあるが、それ以上に、ひぐらしという作品自体がそういう思考を求めていると思いもするからだ(この点においては、「うみねこのなく頃に」の方がよりわかりやすくテーマとして取り込んでいると言えるかもしれない)。

 

というわけで今回はここまで。次は途中でも述べたようにEDの描写をヒントにして今後の展開を予測してみたい。


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