<ハート様、マホ、ゲレゲレ>
自然状態では立ち行かない、ポストモダン社会の視点・バイアスも関係。疑いとボウリング~=一般性、異常を異常と感じている点は違う、虚構の主人公への評価の傾向(圭一、孝之)古い価値を見直すのは一つの立場にしかならない=横並び、無意識の下部構造という理解。統合する何かが存在する?人格と同じで、統一的に考える良違う。単に並列化されたものじゃん?殴り殺されろ(使うか二回目だと言ってメタフィクション化するか)、推理編だったため共通しているが、解答編はもはやそのような縛りがない→重ねて~の微妙さ、惨劇の挑み方
※
記憶が定かではないが、おそらくはひぐらしのキャラクターの話をしているのだと思われる。とすれば主に「魅音の『不自然』な怒り」に繋がるものだが、人格的整合性を求めようとする行為、あるいは人格的整合性(統一的な自己)の存在を信じるような認識のあり方とも繋がってくる。自分の属性分析(「可変的な好み」、「帰納、演繹、バイアス」など)も似た部分があるが、統一的な自己を仮定せず、かつ自己というものが(分析などによっても)容易に変容しうると意識した上で何がどう繋がるのかを分析している点で違っている。自己の統一性と非統一性(極端な話多重人格的)というのはまた近代的な人間観とポストモダン的人間観の違いにも繋がる。
<カルタグラ、エアア、レゲー>
[後半のひぐらしは]文脈すら守られないという世界を描くことによって結局は自己否定をしてしまっている。積み上げなければ高みには到達できないが、それだけ矛盾や不自然さという横からの衝撃に弱い。俺とゲームならダメだが、他者の認識を扱う場合Airは興味深い。なるほど「父親にはなれぬ」か。コココキキキこいつは興味深い。
※
「重ねて見ろ」とか人格的整合性をお疲れ様会で主張しておきながら、結局解答編でその辺りがなあなあになっているためおかしなことになっている。色々設定を作ると人を引き込みやすいが、その分矛盾も出やすくて大変ですなあ、といった内容。後半はKanonと同じゲーム会社のAirをやるきっかけについて。
<そもそも何を推理するのか?>
今まで書かなかった。罪以降に始めた人たちにこそ読まれるべきモノ。言いたいことが伝わらない。事実の指摘にはなっても、「なるほどそうだったのか」という気付きには繋がらないと思ったから。車やガス、水道のない生活を思い浮べても、「大変だっただろう」という感想は生まれても、それがどのような認識などの違いを生み出したかという深みまではいかない。声高に言うほどむしろ引くかもしれない。しかし今、うみねこの掲示板では「何を推理するのか?」が意識されているように思える。館の空間そのもの。見えているもの。人為と魔法…伝わりうる
<生まれてきた時代、環境が違えば…>
「最初から~」の批判…同時代的視点(その段階でどうだったか)。歴史観、生まれた環境=バイアスそのもの。掲示板、壮大な思考実験場、歴史学科、本文主義、認識の在り方を分析、下着でヤリタイ言っててガバっと言ったらそんな気はない。ハァ?思わせぶりな発言、頭の中が残念な人。今では、羽入や未知の薬物、テレパシー、ループなどによってひぐらしが多分にSF的要素が含まれていると言える(痕、腐り姫)。じゃあ昔は?金田一はホラーか?推理だ。つまりホラーとは最初からオカルト中心だと読み切っていた。遺産の蓄積どころか、過去への無理解を撒き散らて生きてる。
※
二つ合わせて説明すると、前者の表題はうみねこの記事(「うみねこの魔女への挑戦」)と繋がり、後者は「プレイ時期のズレとバイアス」の元。前者は、ひぐらしの理解の仕方がプレイ時期によって大きく異なること、それゆえ他の時期に始めた人の思考様式・主張などが理解し辛いことを、現代から昔の人たちの思考様式などを理解する困難さに喩えたもの。後者の「下着でヤリタイ言っててガバっと言ったらそんな気はない。ハァ?思わせぶりな発言、頭の中が残念な人。」というのは、ミスリードが必然的な誤読を招くのは明らかなのにもかかわらず、それを解消しようとする努力が貧弱であるように思える、という批判。しかも、そういう視点で見ると団結イベントもそれを誤魔化すかものであるように思えるわけで、そうすると「大団円で隠蔽されたもの」ができる。さらにそれは、「『共感』なる言葉の生み出す病理について」にも繋がるだろう。
自然状態では立ち行かない、ポストモダン社会の視点・バイアスも関係。疑いとボウリング~=一般性、異常を異常と感じている点は違う、虚構の主人公への評価の傾向(圭一、孝之)古い価値を見直すのは一つの立場にしかならない=横並び、無意識の下部構造という理解。統合する何かが存在する?人格と同じで、統一的に考える良違う。単に並列化されたものじゃん?殴り殺されろ(使うか二回目だと言ってメタフィクション化するか)、推理編だったため共通しているが、解答編はもはやそのような縛りがない→重ねて~の微妙さ、惨劇の挑み方
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記憶が定かではないが、おそらくはひぐらしのキャラクターの話をしているのだと思われる。とすれば主に「魅音の『不自然』な怒り」に繋がるものだが、人格的整合性を求めようとする行為、あるいは人格的整合性(統一的な自己)の存在を信じるような認識のあり方とも繋がってくる。自分の属性分析(「可変的な好み」、「帰納、演繹、バイアス」など)も似た部分があるが、統一的な自己を仮定せず、かつ自己というものが(分析などによっても)容易に変容しうると意識した上で何がどう繋がるのかを分析している点で違っている。自己の統一性と非統一性(極端な話多重人格的)というのはまた近代的な人間観とポストモダン的人間観の違いにも繋がる。
<カルタグラ、エアア、レゲー>
[後半のひぐらしは]文脈すら守られないという世界を描くことによって結局は自己否定をしてしまっている。積み上げなければ高みには到達できないが、それだけ矛盾や不自然さという横からの衝撃に弱い。俺とゲームならダメだが、他者の認識を扱う場合Airは興味深い。なるほど「父親にはなれぬ」か。コココキキキこいつは興味深い。
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「重ねて見ろ」とか人格的整合性をお疲れ様会で主張しておきながら、結局解答編でその辺りがなあなあになっているためおかしなことになっている。色々設定を作ると人を引き込みやすいが、その分矛盾も出やすくて大変ですなあ、といった内容。後半はKanonと同じゲーム会社のAirをやるきっかけについて。
<そもそも何を推理するのか?>
今まで書かなかった。罪以降に始めた人たちにこそ読まれるべきモノ。言いたいことが伝わらない。事実の指摘にはなっても、「なるほどそうだったのか」という気付きには繋がらないと思ったから。車やガス、水道のない生活を思い浮べても、「大変だっただろう」という感想は生まれても、それがどのような認識などの違いを生み出したかという深みまではいかない。声高に言うほどむしろ引くかもしれない。しかし今、うみねこの掲示板では「何を推理するのか?」が意識されているように思える。館の空間そのもの。見えているもの。人為と魔法…伝わりうる
<生まれてきた時代、環境が違えば…>
「最初から~」の批判…同時代的視点(その段階でどうだったか)。歴史観、生まれた環境=バイアスそのもの。掲示板、壮大な思考実験場、歴史学科、本文主義、認識の在り方を分析、下着でヤリタイ言っててガバっと言ったらそんな気はない。ハァ?思わせぶりな発言、頭の中が残念な人。今では、羽入や未知の薬物、テレパシー、ループなどによってひぐらしが多分にSF的要素が含まれていると言える(痕、腐り姫)。じゃあ昔は?金田一はホラーか?推理だ。つまりホラーとは最初からオカルト中心だと読み切っていた。遺産の蓄積どころか、過去への無理解を撒き散らて生きてる。
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二つ合わせて説明すると、前者の表題はうみねこの記事(「うみねこの魔女への挑戦」)と繋がり、後者は「プレイ時期のズレとバイアス」の元。前者は、ひぐらしの理解の仕方がプレイ時期によって大きく異なること、それゆえ他の時期に始めた人の思考様式・主張などが理解し辛いことを、現代から昔の人たちの思考様式などを理解する困難さに喩えたもの。後者の「下着でヤリタイ言っててガバっと言ったらそんな気はない。ハァ?思わせぶりな発言、頭の中が残念な人。」というのは、ミスリードが必然的な誤読を招くのは明らかなのにもかかわらず、それを解消しようとする努力が貧弱であるように思える、という批判。しかも、そういう視点で見ると団結イベントもそれを誤魔化すかものであるように思えるわけで、そうすると「大団円で隠蔽されたもの」ができる。さらにそれは、「『共感』なる言葉の生み出す病理について」にも繋がるだろう。
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