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第七話「罪憑き」のところまで観る。
新しく気になったのはヒョコとラッカのやり取り。ヒョコの心配はもっともだし、ラッカがあれだけ激しく反応するのも必然的なことだ。しかしその二つの必然が、悲しみや軋轢を生み出す。世の中は難しいなあ、と思わされる瞬間である。突然の反応に驚くヒョコの表情もよい(この時のことを謝る文句が「スープのワビ」なあたり、ヒョコの可愛さが出ているがw)。
ところでこの場面、灰羽にとっての「巣立ち」の衝撃が理解できていなければ、視聴者はラッカの反応の方を奇妙な、あるいは過剰なものと感じるのではないかと思う。
「巣立ち」の衝撃は、以下の二点に基づいている。
①灰羽になって長くとも10年くらいで「巣立」たねばならないこと
②灰羽は生まれた時から高い知能を持っており、たとえ「生まれて」数ヶ月であろうとも、他の灰羽の「巣立ち」を理解できること
人間の場合で想像するとわかりやすいが、十数年あるいは数十年を生きた人間が死に出会ったときでさえその衝撃は非常に大きなものである。では、もし生まれて半年の赤子が死を理解でき、しかもそれが数年で自分に降りかかると知ったら、いったいその衝撃はどれほどのものだろうか?
生まれて間もない=自分が安定していない、そして「死」がより身近にあるという点で、「死」の衝撃、切迫感がより巨大なものであることが容易に想像できる。灰羽と「死」の関係をこのように理解していれば、ラッカの反応は、むしろ全く必然的なものとして受け入れることができるだろう。
しかもこの時のラッカは、灰羽の「巣立ち」がグリの街の人間にとって大した出来事ではないという事実に、少なからぬ衝撃を受けている状態だった。これは言わば、身近な人の死にもかかわらず、世界、あるいは世間が何事もなく動いていくことに衝撃を受けるのと同じである。
灰羽の「巣立ち」(≒死)に対する①②の特徴、及びそれが世界に何ら影響を及ぼしていない(ように思われる)という事実が、ヒョコの「良かった」という言葉にラッカをあそこまで過剰に反応させたのであった。
※写真は以前掲載したユラン・カレ(アダナ)のもの
新しく気になったのはヒョコとラッカのやり取り。ヒョコの心配はもっともだし、ラッカがあれだけ激しく反応するのも必然的なことだ。しかしその二つの必然が、悲しみや軋轢を生み出す。世の中は難しいなあ、と思わされる瞬間である。突然の反応に驚くヒョコの表情もよい(この時のことを謝る文句が「スープのワビ」なあたり、ヒョコの可愛さが出ているがw)。
ところでこの場面、灰羽にとっての「巣立ち」の衝撃が理解できていなければ、視聴者はラッカの反応の方を奇妙な、あるいは過剰なものと感じるのではないかと思う。
「巣立ち」の衝撃は、以下の二点に基づいている。
①灰羽になって長くとも10年くらいで「巣立」たねばならないこと
②灰羽は生まれた時から高い知能を持っており、たとえ「生まれて」数ヶ月であろうとも、他の灰羽の「巣立ち」を理解できること
人間の場合で想像するとわかりやすいが、十数年あるいは数十年を生きた人間が死に出会ったときでさえその衝撃は非常に大きなものである。では、もし生まれて半年の赤子が死を理解でき、しかもそれが数年で自分に降りかかると知ったら、いったいその衝撃はどれほどのものだろうか?
生まれて間もない=自分が安定していない、そして「死」がより身近にあるという点で、「死」の衝撃、切迫感がより巨大なものであることが容易に想像できる。灰羽と「死」の関係をこのように理解していれば、ラッカの反応は、むしろ全く必然的なものとして受け入れることができるだろう。
しかもこの時のラッカは、灰羽の「巣立ち」がグリの街の人間にとって大した出来事ではないという事実に、少なからぬ衝撃を受けている状態だった。これは言わば、身近な人の死にもかかわらず、世界、あるいは世間が何事もなく動いていくことに衝撃を受けるのと同じである。
灰羽の「巣立ち」(≒死)に対する①②の特徴、及びそれが世界に何ら影響を及ぼしていない(ように思われる)という事実が、ヒョコの「良かった」という言葉にラッカをあそこまで過剰に反応させたのであった。
※写真は以前掲載したユラン・カレ(アダナ)のもの
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