前回までで、2005~6年に書いた「青空」のレビューはアップした。今から(再度)掲載するのはさらに数年後に書いたものだが、そこでは「青空」における描写の特異性を、「超越的存在の描き方」としてより一般化・抽象化しているのがうかがえる。ここではとりあえずレビューを再掲載することが主目的ではあるが、いくつか他の問題に繋がる視点も提示しておきたいと思ふ。
(1)
時系列的にどちらが先かは覚えていないが、ここで書かれている眼差しは「宗教と思索:今日的思考の原点」と重ね合わせることができる。そしてこのような理解の仕方は、プロパガンダや扇動の構造の理解にも繋がるものである。
(2)
「君が望む永遠」や「ひぐらしのなく頃に」、「沙耶の唄」のレビューと違い、受容分析がないのが大きな問題。ただ、逆に言えばそれは、(1)のような私自身の傾向がよりよく出たレビューになっている、とも表現できる。
(3)
最後の「信じれば適う」云々のくだりは、「ソウルイーター~勇気とその内実~」や「嘲笑の淵源:極限状況、日常性、『共感』」で書いたことに通じる内容である。宗教で言うなら「超越的存在の行動が人間の考える合理性を超える」ことを思いも寄らない世界認識と表現することができよう。これは「人間が超越者の基準に会わせるのではなく、超越者が人間の利益に合わせて振る舞ってくれると期待する思考様式」と言い換えることが可能であり、その意味で極めて現世利益的な発想に連なるものと見なすことができるのではないだろうか。とはいえ、これを中心的なテーマとして扱うのは私の能力を超えている。とりあえずここでは、超越的存在をも人間の世界に馴致(デフォルメ)する志向性が、「聖☆おにいさん」や「よんでますよアザゼルさん」などの作品に見ることができる、とだけ言っておこう(勘違いしないでほしいが、そういう作品が悪であるとか、質が低いということではない)。
(4)
今日の作品では避けられないことだが、「青空」もまたノベルスなど様々な形でメディアミックスされている。その際、原初にあったエートスは薄められ、作品に関連した情報だけが膨れ上がっていく(≒無害化されていく)のもまた避けがたいことである。motherを理解する際の「マザー百科」、灰羽連盟を理解する際の「灰羽連盟脚本」は確かにおもしろいが、一方で「なぜ」それらが我々の心をとらえるのか、といったことを分析する際にはほとんど役にたたないどころか、有害なこともしばしばある。ちなみに私は沙耶の唄という作品を高く評価しつつも、作者が受け手の「ミスリード」の理由などに全く気づかなかったことを批判した。その根拠は様々あるが、元になった作品の話(周辺知識)だけを延々と垂れ流す一方で、作品(のエートス)の受け取られ方に対する分析は全くのところお粗末であり(つまり、「人は演出の仕方一つで理性的に狂気を選びうる」ということが実践的に理解できてない)、にもかかわらず「理性もまた狂気」などという言説を弄しているのは愚の骨頂である、というのがその主な理由の一つだった。
[原文]
※人知を超えた存在に関するこの記事も参照のこと。
青空とひぐらしが様々な点で共通しつつも、大人の関わり方やそれに伴う事件解決の仕方において大きく異なることは前回述べたとおりである。ところで、高校生だけではまるで歯が立たず、大人でさえもねじ伏せられてしまうという前提をもってしても、その窮地をヤマノカミのような超越的存在が解決する展開は、やはり「ご都合による事件解決」といった印象を呼び起こすだろう(特にひぐらしプレイヤーならば)。なるほど確かに、いくら絶望な状況が残酷なまでに冷静に描かれたとしても、全く他のところから(偶然)力を得て事態を解決するのであれば必然性が欠落しているのであって、つまりは「ご都合」だと言えよう。よって以下では、必然性の有無について論じていきたい。
まず最初に言っておくと、青空は意識的に様々な必然性を構築している。ご都合と感じさせる最も大きな要因は前述のように必然性の欠落にあるが、前回の記事でも述べた通り事態の解決には八車文乃の取り成しが必要となるのであって、つまりはこちらから働きかけなければならない(特に顕著なのが穂村シナリオ)。またそもそも、堂島たちがヤマノカミの領域を犯していることや、猫屋敷の猫を殺したりしたことなど、超越的存在が彼らを殺す必然性が(主人公たちが助けを求めるか求めないかにかかわらず)始めから存在している。
これに加え、超越的存在や力が主人公たちに必ずしもプラスに作用するわけではなく、ましてや主人公たちの自由になるものではないこともはっきり描かれている。例えば終盤の儀式について言うと、それによって斎賀や堂島は死ぬのだが、展開次第では文乃が闇に[?]取り込まれて戻って来れなくなったり(文乃バッド)、一番酷い内容だと文乃だけでなく明日菜も死に、主人公も生還こそするものの、今度明日菜を蘇らせるために自分があの儀式を行おうと言うような、これからも悲劇に縛られ続けるという意味で死ぬより陰惨なエンディングを迎えることさえある(明日菜バッド)。多大なる犠牲の上に事態は解決したかもしれないが、主人公は第二の斉賀となって次の悲劇を引き起こす張本人になるのだろう。あるいは雨音バッドのように、取り憑かれた彼女が堂島たちを皆殺しにして、彼女自身戻ってこなくなるという展開もある。猫屋敷の藍もそれと似たような位置づけにいると言えるが、要するに超越的な力は敵(堂島たち)を倒したら後は消えうせるなどという都合のいい存在ではなく、自分達の大切な人を諸共に奪っていき、時にはこれからも縛り続けるのであった。
このように、超越的存在ないし力は、進退窮まった主人公たちのもとにふっと現れて敵を排除してくれるような便利なものではなく、独自の論理で動き、時には主人公達をも巻き込む恐るべきものなのであった。こういう性質ゆえに、人間の善悪に左右されることなく蠢動する超越的存在はプレイヤーに恐怖を感じさせるのだろうし(前掲の「呪怨」に関する記事を参照)、それによって堂島たちが死んで事態が解決しても結果オーライに過ぎず、一歩間違えれば自分たちも巻き込まれて戻って来れなくなる可能性もあるのだ。
要するに「信じれば適う」「困った時の神頼みで何とかなる」といった、甘くて、安易で、ご都合に満ちた救いなど青空には無い(この点例えばkanonとは大きく異なっている)。もっと言えば、青空の超越的存在は善を助け悪を挫くものでなければ、困ったときに何とかしてくれる現世利益的な都合のいい存在でもない(このことは、前述のような冷厳なバッドエンドがあることにも端的に表れている)。このようなシビアさゆえに、全体の話を引き締まったものになっているし、超越的存在による事件解決もご都合とは呼べない必然性と力強さを持っていると私は評価する。
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