さあて今回もお掃除お掃除。まあ部屋の方は朝から晩まで仕事で掃除どころじゃないけどね(゚∀゚)アヒャちなみにこれは予約投稿だから問題ないのさ。え、じゃあ大掃除を前倒しでやりゃあいいんじゃなねえかって?お客さん、それを言っちゃあおしめえよ(-。-)y-゜゜゜まあそれはともかく、今回の話は同題で記事をアップしてるが、草稿を見ればわかるように元々はその次の「嘲笑の淵源:ダイナマイト in 熊本」の内容を繰り込み、私の中で世界理解の底が抜けたきっかけに話を繋げる予定だった。まあそしたらとんでもねえ分量になりそうだったんでやむなく後半を切り離して掲載したという次第である。
【原文】
今年に入って、人工知能関連の対談・南直哉の講義が数多くのインスピレーションを与えて。今まで上手く説明できなかった部分がクリアに。かつバラバラにおそらく読者には見えていただろう話題をまとめるいいきっかけにもなった。
さて、
「人間なんて所詮そんなもの」だから、人工知能が発達すれば人間が人間的と思っていることを含め化けの皮がはがれ、その日が来るのが愉しみだ、と私が思っていると予測する読者がいるかもしれない。それは半分正しい。しかし半分は、そんな予測が否定される状況になれば、それはそれで興味深いと思ってもいるという意味で正しくない(思い込みが否定される愉悦。俺を殺せ)。どちらにしろパラダイムシフトが訪れるという意味においては、どっちにしろ「おもしろい」。
南直哉が信頼できる理由。根拠などないと言い切ってしまうところだ。それはどちらでもないということなのだが、であるならば、生きるべきだという方向に賭けるのが宗教だ、という価値判断の部分まで話してしまう。
「宗教」という言葉から教義や教団しか思い描けない人が多すぎるように私には思える(まあそれが宗教アレルギーということなのだが。イスラームの「タワックル」など例は何でもいいが、さしあたってアニメの「灰羽連盟」を見るのが最も近道だろう)。
「人が生きるには意味がある」という発言。あんたがそう思いたいだけでしょ?と聞いてていつも思う。だから時に書く。なるほど大量虐殺をした人間が大量虐殺をしたがゆえに人口が減ってその分食料が浮いた、といったこともまた「意味」とみなすなら正しいだろうね、と。生きる意味がある、と同時に死んではダメという発言。
なぜ?「悲しむ人がいるから」。なぜ、悲しむ人がいると死んではダメなの?悲しむ人がいないなら死んでもいいの?じゃあみんな死ねって言ったらどうなるの?凶悪犯や望まれない子。発言した人たちは零れ落ちる存在がいることに気づいているのか?というより、単に自分のドグマを正当化したいだけだということに気づいていないのか?と言ってもいい。
屁理屈をこねたいのではない。知的営為という名の風雪に耐えてきたのかを問うているのだ。
仮にも「信念」というのだったら、その程度の思索を乗り越えておけよ。
2番目の質問者は反面教師。この懸隔がまるでわかってない。70年以上その頭陀袋のような肉体に益体もない知識を詰め込んだところで全く無意味だということを身をもって証明したすばらしい事例。
長く生きればそれで素晴らしいなど馬鹿げている。
南直哉と茂木健一郎の・・・これ対談て言うより南直哉に茂木健一郎がインタビューしてるみたいな感じだな。
「本当の私」
私事で恐縮だが
いずれ段階を踏んで書こうと思っていた。
女子31名・男子10名という構成。男子は固まる。仲が良いというよりはむしろ、身を守るために しているかのようだ(実際、高3にもなって一人が別の一人を呼び出して という事があり、。そこまで極端に反りが合わないようにも見えず。閉鎖空間の病理を見た)。そこで話題についていけないとたとえ積極的に でなくてもかなり居心地の悪い状態になる。私はまさにそれだった。
となれば、合わせることを考える。知らないものを聞いてみたり、見てみたりしようとする。その時に「これって本当の自分だろうか」と思った。ここで私がはたと考えたのは、では「本当の自分」とは何か?コアのようなもの。しかしちょっと待てよ。例えば極限状況に陥ったことがあるわけでもなく、大病をしたこともなく、 たこともない。つまりもしかすると簡単に今まで自分だと思っていたものが崩れ去るかもしれない状況を経験してない。にもかかわらず、どうして自分は「本当の自分」などと言えるのか。正しくは、それを本当の自分だと思う私がいるだけなのだ。だからせいぜい、「私はそれをすることが不快と感じている」ぐらいのもの。だったら、どんどん広げてみればいいじゃないか。触れてみた上で取るに足らないと思えばその時に捨てればいい。
このような思考が今の私の根底にある。今の底が抜けたような感じはこっから始まった。
なんか とかしそう。とか冗談に聞こえない。というのはわかる。それは凶暴とかそういうことではなく、どこにリミッターがあるのかがわからないという戸惑い。
とはいえ、この経験で私は自分で気づいたと考えている。言い換えれば、「気づかせてもらった」とは思っていない。だから可能性を掘削するに際して他人は自分を縛る檻だとしか思っていないし、リバタリアニズム的思考を基本にしているのもそのため。
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