ハローエブリニャン。篁守です。今回はちょっと一休みして、今のブログの状況を確認しておきたいと思います。
え~まず現在のブログ名の由来ですが、前の「ねるねる博士の研究室」を設定した時点で、すでにこの題名には飽きておりました。なぜかって言うと、「Dr.ミソシルin サイゼリア」などの記事をすでに書いてしまって今さら感があったので。そんでどーしようかと思っていた折、「ムーたち」の記事を書く際に鷹村さんの記事を見て「ラルルアパルルオーザ」を思い出し、これかー!!と即決した次第であります。ちなみに、現時点で「モーテル~」、「―の花嫁」、「・・・別館」と三つの候補が上がっております。まあ思いつきで変わるかもしれませんがね。
え?そんなことはどうでもいいですかそうですか。
じゃあ今の流れの話をしましょう。前にも触れましたが、6月くらいまでは「君が望む永遠」や「ひぐらしのなく頃に」のことを書いた上で、最後に「沙耶の唄」の記事でまとめる予定でした。もうちょい詳しく言うと、前者は「共感」の欺瞞について述べ、後者ではディスコミュニケーションの必然性などに触れるなどした後で「沙耶の唄」のインタビュー記事に見られる「エミュレーター」、「誤読の自由」、「宗教戦争」などを取り上げ、現代社会の成り立ちに対する(一般的な)無理解、あるいは誰もが合意可能な「真理」が存在しないという状況に対する無理解(別言すればそれが単なるクリシェにしかなっていないこと)を指摘するつもりだったんですわ。
しかし前二者から「沙耶の唄」への飛躍がありすぎること、そして何より「デスノート」を見たことがきっかけで、違う方向から説明することに決定。最近どうも「偶然性」といった言葉をやたら目にするようになったと感じた人がいるかもしれませんが、それは以上のような事情によりますよと。ただ一応言っておくと、初期の記事である「論理至上主義」などで人間の非合理性や歴史の偶然性は指摘してましたし、規定不可能性についても「自己の統一性という欺瞞」や「人格の定義とはロールシャッハのようなもの」、「極限状況での振舞い」といった記事を書き連ねておりました(もっとも、統一的な自己の否定はポストモダン社会に特徴的な解離的人格[cf.キャラ的人間関係]のことを言っているとして、それ自体が読者にとっては予定調和として理解されていた可能性もあるんですがね)。また、偶然を必然に変えようとする思考様式についても「神の罰」やら「宗教と思索」、「人知を超えたものへの合理的解釈」などを通じて繰り返し指摘してきたわけです(その他ひぐらしも絡めながら「結果からの逆算」という記事を書いたこともありんす)。
ただ、そのようにして断片的に書いてきた偶然性を連続して取り上げるようになったのは、沙耶の唄の記事を理解しやすくするためだけではあらっしゃいまへんえ。例えば(論理を越えた)偶然性の話は、常に非論理・反論理の肯定、さらには思考停止と見なされる危険性をはらんでますが、そうならないだけの土台作りは一応できたんじゃないかと考えてたりするわけです(「宗教と思索」の記事を1400件目くらいにようやく書いた事情と同じ)。まあおこがましい表現を使うならそれは「徹底的に論理を突き詰めるがゆえにその限界を知る」ということなんですが、もっと身も蓋もない言い方をすると、「ラプラスの魔」的なものが存在する(より厳密にはそれを観測しうる)という信仰を持っているのでなければ、世界はただ存在しているのであって人間が勝手にそれを解釈を加えているだけ(意味付けしているだけ)だとか、そもそも法則性が見いだせたとしてもなぜこの法則であってあの法則ではないのか、などと考えるのはむしろ当たり前だとかいう話です(「この道我が旅」、「続この道わが旅」、「トランスオクシアナ」、「ニヒリズム」などが関連。とはいえ、これを説得的に論じるにはえらい手間がかかるわけですが)。その他「嘲笑主義」と「空気」、「共感」の話題の橋渡しなど色々ありますが、まあそれは読んでいる人に考えてもらえばよいかと。
さて、これからの仕事はそれらを収束させることにあるわけですが、とりあえず予定しているのは「嘲笑の淵源」、「よつばと!」、「アホでマヌケな大統領選」、「至極のST」などです。まあ気まぐれとか過去の旅行の写真が見つかったりとかでいきなり予定を変更することもありえますが、とりあえずそんな感じで考えております。でわ。
え~まず現在のブログ名の由来ですが、前の「ねるねる博士の研究室」を設定した時点で、すでにこの題名には飽きておりました。なぜかって言うと、「Dr.ミソシルin サイゼリア」などの記事をすでに書いてしまって今さら感があったので。そんでどーしようかと思っていた折、「ムーたち」の記事を書く際に鷹村さんの記事を見て「ラルルアパルルオーザ」を思い出し、これかー!!と即決した次第であります。ちなみに、現時点で「モーテル~」、「―の花嫁」、「・・・別館」と三つの候補が上がっております。まあ思いつきで変わるかもしれませんがね。
え?そんなことはどうでもいいですかそうですか。
じゃあ今の流れの話をしましょう。前にも触れましたが、6月くらいまでは「君が望む永遠」や「ひぐらしのなく頃に」のことを書いた上で、最後に「沙耶の唄」の記事でまとめる予定でした。もうちょい詳しく言うと、前者は「共感」の欺瞞について述べ、後者ではディスコミュニケーションの必然性などに触れるなどした後で「沙耶の唄」のインタビュー記事に見られる「エミュレーター」、「誤読の自由」、「宗教戦争」などを取り上げ、現代社会の成り立ちに対する(一般的な)無理解、あるいは誰もが合意可能な「真理」が存在しないという状況に対する無理解(別言すればそれが単なるクリシェにしかなっていないこと)を指摘するつもりだったんですわ。
しかし前二者から「沙耶の唄」への飛躍がありすぎること、そして何より「デスノート」を見たことがきっかけで、違う方向から説明することに決定。最近どうも「偶然性」といった言葉をやたら目にするようになったと感じた人がいるかもしれませんが、それは以上のような事情によりますよと。ただ一応言っておくと、初期の記事である「論理至上主義」などで人間の非合理性や歴史の偶然性は指摘してましたし、規定不可能性についても「自己の統一性という欺瞞」や「人格の定義とはロールシャッハのようなもの」、「極限状況での振舞い」といった記事を書き連ねておりました(もっとも、統一的な自己の否定はポストモダン社会に特徴的な解離的人格[cf.キャラ的人間関係]のことを言っているとして、それ自体が読者にとっては予定調和として理解されていた可能性もあるんですがね)。また、偶然を必然に変えようとする思考様式についても「神の罰」やら「宗教と思索」、「人知を超えたものへの合理的解釈」などを通じて繰り返し指摘してきたわけです(その他ひぐらしも絡めながら「結果からの逆算」という記事を書いたこともありんす)。
ただ、そのようにして断片的に書いてきた偶然性を連続して取り上げるようになったのは、沙耶の唄の記事を理解しやすくするためだけではあらっしゃいまへんえ。例えば(論理を越えた)偶然性の話は、常に非論理・反論理の肯定、さらには思考停止と見なされる危険性をはらんでますが、そうならないだけの土台作りは一応できたんじゃないかと考えてたりするわけです(「宗教と思索」の記事を1400件目くらいにようやく書いた事情と同じ)。まあおこがましい表現を使うならそれは「徹底的に論理を突き詰めるがゆえにその限界を知る」ということなんですが、もっと身も蓋もない言い方をすると、「ラプラスの魔」的なものが存在する(より厳密にはそれを観測しうる)という信仰を持っているのでなければ、世界はただ存在しているのであって人間が勝手にそれを解釈を加えているだけ(意味付けしているだけ)だとか、そもそも法則性が見いだせたとしてもなぜこの法則であってあの法則ではないのか、などと考えるのはむしろ当たり前だとかいう話です(「この道我が旅」、「続この道わが旅」、「トランスオクシアナ」、「ニヒリズム」などが関連。とはいえ、これを説得的に論じるにはえらい手間がかかるわけですが)。その他「嘲笑主義」と「空気」、「共感」の話題の橋渡しなど色々ありますが、まあそれは読んでいる人に考えてもらえばよいかと。
さて、これからの仕事はそれらを収束させることにあるわけですが、とりあえず予定しているのは「嘲笑の淵源」、「よつばと!」、「アホでマヌケな大統領選」、「至極のST」などです。まあ気まぐれとか過去の旅行の写真が見つかったりとかでいきなり予定を変更することもありえますが、とりあえずそんな感じで考えております。でわ。
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