チェンソーマン・ルックバック・ファイアパンチ:そこにある作家性と作品の構造

2021-09-22 11:08:08 | 本関係

GWに友人から勧められた「チェンソーマン」をようやく読み始めた(だいぶ間が空いて読んだ理由は、「ルックバック」に関連する記事を読んで興味を持ったからで、それは先日記事にした懲役太郎✕かなえ先生の動画で扱われている話題ににもつながる)。

 

結論:めっちゃおもれーやん(小並感)w

 

最初1・2巻だけ読んで、そのまま読み進めるかちょっと迷ったが、3巻まで読んだところで「きたぞきたぞきたぞ・・・」となり、現状6巻まで一気に読み終えましたよと。もうすでに色々なところでレビューも書かれているだろうが、今の自分の頭を整理するためそんなんガン無視(笑)してとりあえずの所感を書いてみますよと。

 

今の時点で印象的な部分を書くと、

1.大きな正義(例:人類を救う)は出てこない

2.主人公をドライブするのが「性欲」

3.生き残るヤツは何かが狂っている=人間性を見せたキャラは死ぬという暗示?

あたりだろうか。

 

まず1から言うと、敵がいくら人を大勢殺すような存在であっても、「人類を救う」とか「人間社会のために」みたいな話は出てこない(ここは味方に魔人=パワーが存在している点も重要に思える)。そして主人公が属する組織(というかマキマ)は、実際何を求めて動いているのかさえ判然としないし、むしろ味方さえ欺く(手段を選ばない)ような存在として、あえて読者が安心して善なる存在と認識できないように描かれている。そして登場人物たちを駆動するのは、身近な人間を喪ったことへの復讐(アキ)や、身近な人間を守りたいという思い(姫野)、あるいは自分が死にたくない(コベニ)という生存欲求だ。

 

今のご時世では、当たり前な部分もあるだろう。すでにゼロ年代でバトロワ系が広がり、すでにその後継が腐るほど存在する状況で、何のためらいもなく大きな正義を書く・書ける方が大丈夫か?って状況だからだ(もちろんそれを書くこともできるが、単なる惰性でもなく、熱狂・洗脳でもなしにそれを説得的に描写するのは、それこそ歴史に残るくらいの筆致でなければならず、並大抵の所業ではない)。

 

とはいえ、「ファイアパンチ」(まだ1巻しか読んでない)、「ルックバック」(ざっくりどんな内容かは知っているが未読)の内容からすると、これはひとり時代性の問題だけでなく、藤本タツキの作家性も大きく関係しているように思えてならないのである。そのエッセンスを一言で表すなら「fury=強い憤り」だと思うが、これはもう少し色々作品を読んだ上で機会を改めて書きたいと思う。

 

次に2。
これは正直、1にも関連して「主人公の動機づけは正義とか義憤とかじゃなく、己の欲求ですよ」ということを示すための符牒+読者サービス(もっとストレートに言えばエロスで釣るための撒き餌w)なのかと最初は思っていたが、ここまで繰り返し描写される以上、それは違うなと感じるようになっている。

 

そもそも、最初こそダイレクトなボディタッチへの欲求というそれこそ「小並感」(笑)みたいな様相だったが(もちろん、主人公が凄惨な人生を送ってきたこと、マキマがそういう扱いをしないことを考慮に入れる必要はあり、そこには単なるエロス以上の、母親を求めていると思しき要素が無視できない)、そこにマキマという固有性への拘りという要素が入る(=だから姫野の欲求にも応じない)ことで、話が大きく変わってきている(ちなみに、作者がどの程度こういった行為や描写に対して冷徹な眼差しを持っているかは、「ファイアパンチ」の1巻を読むだけで十分だろう。そこでは、様々な禁忌とともに、極限状況を生きる人々を見下す度し難い選民思想に染まった人間たちと、そういった連中が畜生にも劣る行為を行っている様が繰り返し描かれている→ちなみにこの話と描写の方法は、ずっと前に書いた「極限状況、日常性、『共感』」の記事と密接に関係する)。

 

そして主人公が心を持っていかれそうになった、第6巻のあの存在をマキマがどう処したかまで考慮すると、マキマは主人公の原動力を理解した上で、それを掌握しておきたいと考えていることがうかがえる。この辺、主人公がマキマの目的のキーパーソンだからなのだろうけど、そもそも主人公の動機づけが何か?あるいは力の源泉は何か?といった視点でも重要な要素であるように思われる。

 

3は確か主人公とパワーを鍛えてるオッサン(名前覚えてないw)のセリフ。この言葉って今まで出てきた人物、すなわち姫野やレゼなどに当てはまってるんで、おそらくこの作品の未来を暗示しているんではないかと思われる。実際、どこかネジの外れてる主人公とパワー、割と死にそうだった(けど、ある種ぶっ壊れててその状態で安定している?)コベニ、そして全く底が見えないマキマ、これら全員が生き残っている。

 

逆に言えば、そのモチベーションの在り処や人間性がすでに表出しているアキ、主人公とパワーに情が移ってしまっているこのセリフを言ったオッサンの二人は、近い将来死ぬんだろうな・・・と感じている(このあたり、全くイコールというわけではないけれど、自分には「鬼滅の刃」で鬼たちが人間性を取り戻すことにより消失していったことを想起させる)。

 

とまあこんな感じ。これから、チェンソーマンの残りとルックバックを読みつつ、さらにファイアパンチも制覇してまた色々書いてみることにしたい。

 

[余談]

ちなみにチェンソーマンを読みながら自分が連想した作品の一つは、「ブギーポップ」シリーズである。異能を持って社会から爪はじきにされた人物たちが、敵にも味方にもいて戦っている、という構図からこの連想をしたのだが(こういったモチーフ自体は、「サイボーグ009」やら「仮面ライダー」やら結構遡れるんだけども)、そこから改めて、2000年から約20年の時を経てどういう要素が付加されたのだろうと考えてみた。

 

「ブギーポップ」は、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品群の走りなわけだが、そこではミニマルな人間関係と、世界の謎や救済という大きな話が結びつけられることを特徴としていたが、一方でバトロワ系の特徴である弱肉強食の生き残り競争というドライで凄惨な描写、あるいは生き残り競争なのはわかってるけど、一人で生きることはできないと「絆」の重要性を描写するような部分は見られない。

 

こういう風に見ていくと、生々しい現実を描写に取り込むことを避けるゼロ年代はじめの「セカイ系」と、社会が厳しくなってきたことでもう自分の世界に安住していることはできないとなったゼロ年代後期の「バトロワ系」と、それでもこの殺伐とした社会を生き残るには自分の力だけを頼みにするのはむしろ不可能だとする2010年代以降(代表的作品である「魔法少女まどか☆マギガ」は2011年)の「絆重視系?」作品という風にして、見ていくことができるかもしれない。


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