映画「ナポレオン」の感想:エンタメとして面白いが、テーマとしては決定的に失敗作

2023-12-17 11:28:28 | レビュー系
少し前に映画「ナポレオン」のネタバレなしレビューを書いたので、今回はネタバレあり版でいきたいと思う。
 
 
で、結論を先に述べると、評価は75~85点と述べて「驚きはないが、よく練られたエンタメ映画」という評価をしたが、これは特に変わっていない。点数のイメージは、エンタメとしては120点だが、テーマ的失敗でマイナス45点の結果、75点に落ち着いたという感じである。ただ、この前提としては自分の中に「リドリー・スコットはナポレオンをヒトラーとして描こうとした映画だ」という認識があらかじめあった、という点は書いたおいた方がよいだろう。即ち、少なくとも彼を称賛するような作品でないことを前提に、それではどう彼を料理するのかという視点で映画を見た、ということである。逆に、そういった認識なしの素の状態で視聴したならば、かなり辛口の評価になった可能性がある旨、注意を喚起しておきたい。
 
 
で、評価のポイントを箇条書きにするとざっくりこんなもんですかね。
 
1.そもそもナポレオンの生涯を3時間弱で描くことに無理があるため、どのような切り口で描くのかが重要になる
 
2.ナポレオンを人間として描き、そのコンプレックスや矮小さに焦点を当てている
 
3.その性質を見抜いていたジョゼフィーヌとの愛憎劇
 
4.その意味で、ナポレオンとジョゼフィーヌ役の演技が大変優れており、切り口に則ったエンタメ作品としては楽しめる
 
5.史実に忠実でない場面もしばしばある
 
6.ナポレオンの歴史的に重要な役割が伝わるような描写がない(ただの戦闘狂ではないんですがそれは・・・)
 
7.ゆえになぜ人々がナポレオンに熱狂したのかがわかりづらい(ただ戦争が強いから??)
 
8.ナポレオンの矮小さを描くにしても、スペイン征服と革命的運動の弾圧など材料はいくらでもあったはず
 
9.なるほど映画的に映える題材を揃えたり、それ用に加工したのだという主張もわかるが、それはプロパガンダ映画と何が違うのか?
 
10.プロパガンダ映画的側面が多分にあるにもかかわらず、ポピュリストたるナポレオンを批判してもただのブーメラン
 
11.ナポレオンの矮小さがむしろ人間的魅力として人を惹きつけたのだと描きたいなら、その工夫が足りない
 
12.  彼を稀代のポピュリストとして描き、例えば現代のトランプ現象などポピュリズム批判に繋げたいなら、完全に失敗
 
 
作品の問題点を箇条書きではなくもう少し掘り下げると、次のようになる。ナポレオンを批判的に描き出したいのなら、英雄というプロパガンダに対し、凡人として矮小化するというカウンタープロパガンダではなく、その多様性を描くという「アンチプロパガンダ」でなくてはならない。というのも、その著名さゆえに歴史的な役割はある程度知られており、問題点ばかりを肥大化させてその矮小性に着目した(させた)としても、むしろそのことで作品そのものの信用性や説得力を失ってしまうからである。
 
 
またそのような複雑性を描くには2時間半(一般的な映画一本強の尺)という時間が短すぎるというのであれば、そもそもナポレオンのどこにフォーカスするかという戦略の次元において失敗していたという評価になるだろう(そもそもナポレオン絡みの作品はギネスに載るくらい多いので、その扱いの難しさが事前に意識されなかったはずはないのだから)。
 
 
以上。
 
 
 
【補足】
 
ここまででほぼ言い尽くしている感はあるが、もう少し肉付けすると以下のようになる。
最初の評価に戻るが、エンタメ作品だと完全に振り切って楽しむなら、よくできている。ただ、本作を何らかの教訓的作品だとか、もしくはそこから人の世界観が劇的に変わるような効果があるかと問われれば、完全にNoと言えるし、そこを狙っているのであったら、全くの失敗作と断じざるをえないだろう。そのあたりについて、項目ごとにいくつか書いてみよう。
 
 
〇独裁者の人物像
この観点では、映画「ヒトラー最期の12日間」あたりが参考になる。その思想ではなく、人間性やその周囲の人々に焦点を当てる、という描き方である。
 
 
〇ナポレオンの生涯の濃さ
その浮き沈みや歴史的イベントの多さ、業績の多さで言えば、到底映画一本で語るなど無理な話である。これは前世紀の「ワーテルロー」ですら、その前後しか舞台にしていないのに、本作より長い時間がかかっていることを想起したい。
 
 
 
 
 
 
〇トゥーロン攻防戦の間抜けさ
冒頭のこの戦いで、ナポレオンを英雄として描く意図がないことがはっきりとわかる。この戦争で彼は間違いなく歴史の表舞台に躍り出たのだが、その指揮の様子はおっかなびっくりであり、むしろ馬のおかげで命拾いした上に、自分を殺したかもしれない砲弾をわざわざ母親に送りつけるというエクセントリックな行動をしている。もちろんこれは、彼が数学に精通してそれにより砲術・砲兵で名を挙げたことなどともリンクはするし、またそれをわざわざ母に送る行為は彼の中で母親が大きな存在だということを暗示はするが、その彼の行為に呆れる弟を描くことで、彼の行動がズレている(と私たちは描くつもりでいますよ)というメッセージだとわかる。
 
 
〇寝取られた!で動く歴史
ブリュメール18日のクーデターもエルバ島脱出も、ジョゼフィーヌが他の男に寝取られる!という嫉妬心からナポレオンが衝動的に動き、それが歴史のうねりを生み出したという演出になっている。まあ歴史ってものが必然性や戦略性じゃなくて、むしろ偶然性によってしばしば駆動されるって認識は大事だけれども(じゃなきゃマルクス主義史観みたいなイデオロギーにすぐハマる)、同時に少なくともナポレオンの突然の帰国が民衆に歓迎されているのはナポレオンによるメディア操作(エジプトでイギリス軍に勝っている!)が背景にあったことや、そういったものにすぐ踊らされる民衆の愚かさを示さないことは問題じゃないんですかね?英雄てのは自分自身だけでそうなるのではなく、あくまでそれを祭り上げる周囲があって成立するものだ。その構造を示すことなしに、「浮気で不安になって本国に帰ったのを政治的意図で糊塗しました」みたいなのはちょっとさすがに乱暴すぎやしませんかね、と思う。
 
 
〇巧言令色な政治家としての描写不足
ナポレオンを矮小な人間として描くことに焦点を置くと、結局彼が熱狂的に受け入れられたことの説明にならず、単なるレッテル貼りの領域を出ない(この映画ってあたかも選挙の相手候補者に対する誹謗中傷動画として見ると、ピタリとハマって思わず笑えてくるんだよね。製作者はおそらくポピュリズム的なるものには冷笑的なはずなのに、自分自身がそれと似た手法をなぞっていることに思わず笑えてくる、という感じ)。
 
まあ王党派の反乱をぶどう弾という被害が大きくなる兵器を使って鎮圧したことで、彼が別に民衆のことを思いやってなどおらず、あくまで目的合理的に行動しているだけだ、といったことを印象付けたいのは一応理解はするが、だったら王党派による自身の暗殺事件をでっち上げて処刑したこととか、何よりヨーロッパ諸国を旧体制から解放すると言いながら、スペインなどは征服後に自身の身内を支配者に据えた上で革命運動は抑え込み、かつ民衆のゲリラは弾圧していくといった描写を入れる方がよほど合理的だと思った(要は「革命精神の輸出」というのは正当化のための美名に過ぎない、てこと)。
 
 
〇バックの意味
要するに、ジョゼフィーヌを支配下(コントロール下)に置きたくてしょうがない、というナポレオンの心情を体現しているんだろう。
 
 
〇赤ちゃんを元妻の所に連れていくなよ・・・
ジョゼフィーヌの元にマリ・ルイーズとの間に産まれた赤子を連れていくシーンは、作中で私が最もドン引きした場面かもしれない。まあこれは彼がジョゼフィーヌを自分の理解者と妄想しており、ゆえに「自分が喜ばしいものは彼女にとっても喜ばしいものだ」というようなマザーファッカー的独善思考で動いたことの表現、と考えることはできる。
 
 
〇ジョゼフィーヌがナポレオンの理解者であり、彼を皇帝にまで導いた
先のブリュメール18日といいエルバ島脱出といい、ジョゼフィーヌという存在がナポレオンを権力者・皇帝たらしめた存在だ、という風にこの作品の描写を言い換えることもできる(まあ正確には、そのことで跡継ぎを産まなければならなくなり、己の半身を離縁して破滅に向かうという悲劇がその先に待っているのだが)。その解釈でいけば、ジョゼフィーヌ亡き後のワーテルローはそもそも敗北することが約束されており、ゆえに「どう負けるかが問題だった」とも言えるだろう。
 
そのような演出意図は理解する一方、実態の歴史はそんな単純なものではなく、例えばライプツィヒの戦いであれば、かつての幕僚ベルナドットがスウェーデン王として対仏大同盟側で参戦しなければ戦争の行方はわからなかったのと同じように、ワーテルローの勝敗も流動的なものであった(そもそもイギリスが米英戦争の最中でそちらに主力を割かざるをえず、戦地にいたのが実は二戦級だったことなども関係している)。
 
にもかかわらず、それを歴史的必然かのように描くのは、本能寺の変を陰謀論的に考えるのと同じことで、事態の単純化・矮小化を招く。そしてそれは、結局のところイデオロギー同じであり、ナポレオンを(彼の負の側面を無視して)英雄視するような発想と一体何が違うのか?と問われるところである。
 
 
〇ナポレオンを危険な独裁者として描くことに失敗している
この映画を評価する時に、「史実であるか否か」に評価の中心を据えるのは妥当性を欠く、という見方はありえる。しかしそれならば、「歴史を歪曲してまでも描こうとしたテーマが視聴者に伝わるようなものになっているか?」と問われねばならないだろう。その点に関して、私の答えは明確に否である。
 
その理由は、ナポレオンの人間的側面を描くことでその矮小性を示そうとしたことにより、なぜ彼が熱狂的に受け入れられたかの説得的説明はわからないままだし、ゆえにナチスの悪魔化と同じく自分にも関係しうる歴史的教訓として機能しない(時代的熱狂という形で切断処理されて終わりである)。
 
いや下手をすると、前の記事でも述べたように、アメリカの人々が議論の精緻なゴアよりブッシュを支持し、中学英語を操り卑俗な話を繰り返すトランプをむしろ親近感の湧く存在として一部の人々が熱狂的に受け入れたように、むしろ革命精神などという抽象的な理念でもなく、あるいはナポレオン法典による私有財産の神聖不可侵を法制化して近代市民社会の基礎を築いたといった役割でもなく、そのコンプレックスに満ちた行動原理はむしろ、「なんだナポレオンて割と共感できるヤツじゃん!」ぐらいの感じで受容される映画になってしまったのではないか、とさえ私は考える。
 
その意味において、繰り返すがエンターテイメントとして極めて優れた作品であるにもかかわらず、テーマの描写や作品性としては、完全に失敗した作品(だからこれを見ても何ら驚きは生じない)に堕してしまっているというのが私の最終的な評価である。
 
 
以上。

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